聖書一日一章
聖書一日一章
一日目 ヨハネによる福音書 1章1節
ポイント:優先順位
ー初めに、、、ー
と書かれてあります。
人間には、「したいこと」と「しなければならないこと」があります。
ある時、尊敬します牧師からこのようなことを教わりました。
一日の初めに、「したいこと」と「しなければならないこと」を分ける。
そして、しなければならないことを紙に書きだし、その中で重要なもの二つに〇をつける。
その重要な二つから仕事を始めなさい。
日々の生活に追われ、焦りばかりの日々を過ごしていた私にとって目からうろこでした。
恥ずかしいことですが、書き始めてみると「したいこと」と「しなければならないこと」の区別がつかないのです。
そして、私の心の癖が見えてきたのです。
それは、「したいこと」を優先してしまうという自分の心の癖でした。
「しなければならないこと」はしんどい(つらい)ことであり、できれば避けたいことなので、それに向き合うには心にエネルギーが必要であることもわかりました。
神の国と神の義をまず第一に求めなさい、とイエス様は言われました。
大切な一日の初めを神様とともに始めましょう。
人生の中で本当に大切なものに気づき、優先順位をつけると、時間が自分の手の中に入ってきます。
二日目 ヨハネによる福音書 1章1節
ポイント : 肯定語
「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。」
言葉は大切です。なぜなら、私たちの大先輩ヨハネがそのように教えてくださるからです。
人間は、毎日使う言葉を意識していません。
生まれてから小学校4,5年生までは、親の言葉が一番重要です。
しかし、自我が目覚め始め、自分というものを強く意識し始めると、一番影響されるのが自分の言葉なのです。
ところが、人間が一日に使う言葉の77%が否定語だと言われています。
そして、人生にとって最も重要な自己肯定感は他者の言葉でなく、自分の言葉、自分に向けて語られた自分の言葉で築き上げられるのです。
私は教会に導かれ、神様と出会って初めて肯定語を自分に使うということを知りました。
また、イエス様に出会って自分を大切にするということが、肯定-ぬくもりの言葉-を自分に向けるということを知りました。
今日もあなたなら絶対大丈夫とイエス様は言われるのです。
「あなたなら大丈夫」ともっと自分に優しく。
三日目 ヨハネによる福音書 1章4節
ポイント : 言霊
「言の内に命があった。」
日本人は、昔から言葉を大切にする民族でした。
「言霊(ことだま」」と表現し言葉に命が宿ると考えました。
命言葉と道具言葉といわれるように、その言葉の中に込められているエネルギーの量が問題です。
その人が語る「大丈夫」という言葉の中に、心配とマイナスのエネルギーもあれば、プラスのエネルギーもあり、その中でも10の大丈夫もあれば、100の大丈夫、1000の大丈夫もあるのです。
説明すれば説明が伝わり、そのように生きれば命が伝わると言われますが、コツコツかつコツコツと基本に戻り、祈りとみ言葉に親しみ、神とともに歩む生き方を積み重ねることがなにより大切です。
ところが、基本に生きることは刺激が少なく時につまらなくなります。
そして、基本以外のものが実に魅力的に感じるのです。
基本から外れたことを「的外れ」すなわち罪と聖書は表現しました。
神の言葉を愛し祈りの生活習慣を身に着けたいものです。
四日目 ヨハネによる福音書 1章6節
ポイント : 「遣わされた」
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」
二通りの生き方があります。
一つ目は、願望に生きるということです。
人生にモデルを持ちなさいと言われますが、あのような人になりたい、あんな生き方がしたい、あのような人生をおくりたいという目標を持っている人は幸いです。
自分が目標とする人の言葉を聞き、そのように振る舞い、ピンチの時にどのように対応するかを真似ることが大切です。
そうすればその人に近づくことができます。
二つ目は、人生が私に願っていることを生きる。
ヨハネは、「遣わされた」と書かれている通りに、遣わした方の思いを実現するために人生を使いました。
そして、「遣わされた」生き方をすると、自分の中にある不必要と思える部分、欠点や弱点や短所などが宝に見えて来るのです。不思議です。
どちらの生き方も大切です。
もし、行き詰まりを感じている方がいるならば、視点を変えて人生があなたに願っていることに思いをめぐらせてみませんか?
宝は、まだまだあなたの中に眠っています。
五日目 ヨハネによる福音書 1章7節
ポイント:「証人として」
「彼は証をするために来た。」
この言葉を一言でいうと「あなたを見ると神が見える」ということです。
ハーバード大学の調査によると、コミニケションで相手に伝わる割合は、言葉からは7%と言われています。
隠していても言葉以外のことがどうも伝わってしまうようです。
そして、伝わらなくてもよい不安や恐れが言葉以上に伝わっているようです。
「彼は証をするために」とヨハネに書かれている言葉の根底にあるのは、彼が特別な存在であることは間違いありませんが、それよりもヨハネの自己受容の大きさではないかと思うのです。
人間は神の作品であるから、自分の目から見て自分の価値観から見て、受け入れ難いところも、神の目から見ると高価で尊いのです。
ヨハネは、自分であることにこの上ない喜びと平安がありました。
ですから、自分の言葉で表現し、たどたどしい言葉であっても自分の言葉で語ることができたのです。
自分を生きている人の中に神の臨在が見える。
自分を大切にすることは、人を造られた創造主の心を大切にすることです。
六日目 ヨハネによる福音書1章11節
ポイント : 根付く、心の習慣
「言は、自分の民のところに来たのに、民は受け入れなかった」
この言葉は、イエスキリストが来て下ったのに、民はキリストを受け入れないと書かれています。
もしも、真の神がおられて私達の間を歩まれたら、人間はそれを排除しようとするものだというのです。
また、それと同じように自分の心の中に新しい神の言葉、あなたを変える命のみ言葉が入ってきても、それらを異物と認識して排除しようとするのが人間だと書かれています。
人の命を守るために臓器移植をしても、自分の中にある免疫がそれらを異物と認識し排除しようと致します。
これは、人間の体を守っていくうえで大切な性質ですが、新しい神の国の現実を受け入れて生きていく上ではしっかり認識して、自分の決断でみ言葉を受け入れ続ける習慣が必要です。
「ダメだ」という言葉がしっかり根付いている心の土壌に、「あなたは素晴らしい、高価で尊い」という言葉が蒔かれても、拒絶反応を起こして排除しようとします。
その時、自分の味方は自分がしてあげるのです。
根付くまで、繰り返し繰り返し、自分の決断でみ言葉を心に受け入れ続ける。
よき習慣は人を救う。心の習慣を意識しましょう。
七日目 ヨハネによる福音書1章12節
ポイント : もっと自分を認める
「神の子となる資格」
資格という言葉を辞書で見ると「あることを行うのに必要な、また、ふさわしい地位や立場」と書かれています。
ヨハネは、その名を信じた人、すなわちイエスキリストを自分の救い主として信じる者に、神の子となる資格が与えられると表現しました。
すなわち、主を信じるあなたに自分自身を表現し、自分を生きることがどれほど気高く人間の尊厳を守り、尊いことであるかを心にとめてほしいと願いました。
自分の思いを押し殺し、自分の感情を否定してロボットのように生きることが神の子どもなのではありません。
自分で自分の思いを認めて、自分の感情がどれほど否定的であっても肯定しあげることは、真に自分を認めることにほかなりません。
そして、それらは大変な作業であり、神様の助けと力がないと、自分と向き合うことはできないのです。
しかし、自分と向き合う時にだけ、人格が成長し練り上げられて行くのです。
それこそ、神の子どもとしての特権の結果ではないでしょうか。
神を受け入れて生きることは、本当の自分との出会いです。
八日目 ヨハネによる福音書1章14節
ポイント : 宿るとは?
「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
もし、あなたが旅先で宿をとられるとした、どんなところに泊まりたいですか?
それは、景色がきれいで居心地の良い場所を望まれるのではないでしょうか。
私は、韓国の祈祷院に行ったときに、そこで4人部屋に泊りました。
習慣の違う国の人たちと一緒でした。
食べ物は辛く体に合わず、部屋のトイレは詰り、シャワーは水しか出ません。
もう二度とこの場所に宿をとりたいとは思いません。
しかし、聖書によれば、「真の神はあるがままの私のただ中に宿られた」と書かれています。
大切なお客様を家に招くときには、汚いところを掃除して片付け、最高の状態で迎えるのではないでしょうか?
しかし、私の心の中には隠すことができない嫉妬や怒りや不安や恐れなど、汚いものでいっぱいで、隠しても隠し切れません。
私たちは、綺麗な一本道が好きです。整理されて生産性のあることが評価を受けます。
しかし、もし本物が存在する、本物の神が私たち人間のただ中に宿られるとするならば、その場所は、罪と失敗にまみれたあるがままの現実のただ中です。
私が来たのは、罪びとを招くためです。
九日目 ヨハネによる福音書1章14節
ポイント: 傷の中に湧き出す栄光
「わたしたちはその栄光を見た」
キリストの栄光、それは恵みと真理に満ちていたとかかれてります。
昨年、我が家にダウン症の赤ちゃん“やまと”が来てくれました。
彼の胸には大きな心臓手術のあとがしっかり残り、手術の後遺症だと思いますが、胸の肋骨が前に浮き上がっています。
傷はないほうがいいし、綺麗で形の同じものが売り物として店頭に並びます。
星野富弘さんの詩の中に「私は傷を持っている、でもその傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」と詠われました。
私はこの詩が大好きです。
傷がなければ決して味わうことのできない恵みと優しさの世界です。
甦りのキリストは、その体に十字架の傷を残したまま復活されました。
栄光の体だから、綺麗に繕い見た目も鮮やかにされたら良いのに、傷そのままで弟子の前に立たれました。
そして、その傷を自分が生きている証拠、自分の存在のアイデンティティとされたのです。
やまとの傷を見るたびに、この子の生きる証拠、この子が愛されている証を見ているようです。
あなたの傷は、キリストと交わる栄光の証です。
十日目 ヨハネによる福音書1章16節
ポイント:人生のメモリを下げる
「恵みの上にさらに恵み」
私は小学生の時に、担任の教師より恵みをいただきました。
算数のテストで三角△をつけてもらい、0点を免れました。
算数で三角がつくのは珍しく、先生が私の答案の中で何とか点数を見出そうと苦労したおかげです。
私たちは、自分の人生にかなり厳しい点数をつけてしまいがちです。
しかし、もっと自分に対する物差しのメモリを下げて、加点法で人生を見つめることが非常に大切だと思います。
なぜなら、救い主キリストは加点法で私たちを見ているからです。
恵みに恵みをと言われるように、自分でさえ点数を見出せない人生の中で、キリストはすでにあなたに△どころか〇をつけておられる。
「それで十分」と言っておられるのです。
救い主イエス様の恵みのメモリであなたは計られているのです。
加点法的人生観を身に付ける。
十一日目 ヨハネによる福音書1章19節
ポイント : アイデンティティ
ヨハネが活動していた時、祭司やレビ人達が質問します。
「あなたは、どなたですか」
私が聞かれたらたぶん自分の名前を応えてしまうと思います。
自分の名前は、記号であり本来の自分をあらわすものではありません。
「われ思うゆえに我あり」とデカルトという哲学者が言いましたが、自分が自分をどのように思っているのかは、私たちが考えている以上に大切です。
ヨハネの答えは明快です。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」ヨハネによる福音書1章23節
預言者イザヤの書を用いて答えました。
預言者イザヤは、私たち人間のアイデンティティ、存在の確かさを「あなたは高価で尊い存在、愛されている存在」とイザヤ書43章4節で宣言しました。
アイデンティティの確立は、自分より偉大な方の自分への評価は大きく影響します。
そして、何より変わることのない造り主の評価は、あなたがどのように思ってもあなたに関係なく確かなのです。
造り主の評価に自分を合わせよう。
十二日目 ヨハネによる福音書1章29節
ポイント :心の目に映るものが人生を決める
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」
人生は、あなたの心の目、心のレンズに映るものが人生を左右します。
心の目に、憎しみが映っているならば憎しみが心を満たし、憎しみが人生を支配します。
心に目に、物や金が映っている人は、物やお金が心を支配して、物やお金に人生が振り回されるのです。
そして、多くの場合それに気づいていません。
しかし、心の目にキリストが豊かに映っている人は、その心をキリストが支配して、キリストが人生を家庭をおさめることになります。
ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とキリストを初めて見たときに思わず口からその言葉が出てきました。
ヨハネの心は、聖書を通して掲示されたメシア救い主を仰ぎ見続けていたのです。
ですから、イエス様を初めて見た時、旧約聖書で語られているところの救い主であるとわかったのです。
しかも、救い主のご性質までヨハネの心を支配していました。
それはゆるしです。
真の神はゆるしの神なのです。
自分の心の目が見つめるもの。
十三日目 ヨハネによる福音書1章29節
ポイント : 自家発電に気を付ける
「世の罪を取り除く神の子羊」
ヨハネがキリストを見て思わず口から出た言葉が「世の罪を取り除く神の子羊」でした。
罪とは何か?
罪とは、神様から離れて自家発電した人間のことです。
本来の人間は、命の源である神様に命のベルトがかけられて、自分で生きているのではなく、生かされている状態です。
自家発電ですから、自分以上のものを認めることはできなし、自分の努力と頑張りで人生は何とかなると思っています。
自家発電している人の特徴は感謝がありません。
心に平安や安心感がなく、いつも何かに追われるようなしんどさを抱えています。
そして、最大の特徴は自分が自家発電していることに気が付かないのです。
交わりとは、交わった方の影響を良くも悪くも受けてしまいます。
命の源である神様と交わると、なぜかわからないのに希望があふれ、感謝と賛美があふれて、前向き肯定的に生きてしまいます。
決して頑張り努力ではないのです。
一日の初めに、イエス様の名を呼んで命の源と深くつながる。
十四日目 ヨハネによる福音書1章33節
ポイント : 人格的出会い
「その人が、聖霊によってバプテスマを授ける人である」
人格者は人格者によって影響を受ける。
私の先輩の先生が、教会に大きな問題を持った方が訪ねてこられて、そのうつ状態の人の話を2時間聞いたら、そのあと3時間寝込みました。と言われていました。
それは、その人の人格を通してうつ的なしんどいマイナスエネルギーに触れたのではないかと思います。
不思議ですが、心の中に明るいプラスのエネルギーに満ちている人のそばにいるだけで、言葉を交わすだけで、私たちの心があたたかくなったり豊かになったり平安になったりします。
私は、20代のころ印刷会社に勤めておりました。
会社の上司が非常にマイナス思考でいつもため息を漏らし、社長の悪口ばかりを言っていました。
その上司と一日中ともにいて、愚痴を聞きそのマイナス思考とそのエネルギーに触れていると、自分も知らないうちに同じように不平と不満を言い、愚痴だらけのマイナス思考の生き方をしていることに気づきました。
その人、すなわちイエスキリストは、私たちを導いて「聖霊」慰め主、癒し主の人格の中になるあたたかなエネルギーで心を満たしてくださるのです。
そして、イエス様とともにいる時間が多ければ多いほど、聖霊様の人格の中にあるあたたかな平和な思いで満たされます。
理由や理屈で心が平和になると、もっと大きな否定的な理由が来た時に、心の平和は吹き飛びます。
しかし、イエス様が今日下さる平安は理由のない天来の平安です。
「私の平安をあなたがたに残します」
十五日目 ヨハネによる福音書1章38節
ポイント : 願望の強さ
「なにを求めているのか?」
ヨハネの弟子たちは、キリストに出会ったときヨハネの師匠であるイエス様に従うようになりました。
その従ってくる弟子に向かい最初に発した言葉が「何を求めているのか?」なのです。
もし、キリストがあなたの前に立たれて「何を求めているのか?」と言われたらなんとお答えになりますか?
二つの恵みが書かれています。
1) 願いの強さ
聖書は、人生に必要なのは、「できる」か「できない」かということでなく、「したい」か「したくない」かであるというのです。
イエス様は「求めなさい」と言われるのです。
自分の願望に焦点を当てた生き方を身に着ける幸いです。
案外私たちは、自分の本当の願望に気づいていないものです。
神の作品である自分の願望に気づき、その願望が他人から見て評価のないものであってもあなたがあなたの味方なり、それに承認をあげるのです。
2)具体的
「何を」ほしいのか?とイエス様は言われるお方です。
八百屋で大根が欲しいときには「大根ください」といいます。ニンジンが欲しいときには、「ニンジンください」といいます。
同じように、具体的に願うことは本当に大切なのです。
私たちが、ありのまま自分の言葉で祈るとき、不思議ですが神様は、「ほしい」ものと「必要」なものの違いを教えてくださいます。
私たちが人生で必要なもの、なくてはならないものに気づきはじめるとき、本当の豊かさを知るのです。
十六日目 ヨハネによる福音書1章41節
ポイント : 出会い
「私はメシアに出会った」
ユダヤ人の哲学者が人生は出会いで決まると言いました。
ただ一度のあの時の出会いで、あの時の言葉で人生の方向性が大きく変わったという人は、たくさんおられるのではないでしょうか?
私にも忘れられない出会いがあります。
中学2年生の時に後ろの席に座ったT君との出会いです。
私は、小学校5年生のときに母子家庭になり、自分でも受け止めきれない心の痛みをどこへぶつけてよいのかわからない毎日でした。
中学に入り、不良の道へまっしぐら、だれにも心を開くことができずにいるときに、こんな私にT君が話かけてくれました。
「いっしょに帰ろう」
その瞬間に、心の中にあたたかいものが入ってくるような気がして、彼とともに行動するようになりました。
情緒不安定なので、塾などさぼりたくなる時も、私と一緒にさぼってくれました。
あるがままの私を受け入れてもらえるというとても貴重な体験でした。
この箇所で、ペトロは「私はメシアに出会った」という言葉は、旧約聖書で預言されているところのメシアということです。
その預言通りのメシアは、自分の人生のあるがままのただ中にきて、全てを包み込むようなぬくもりであったのです。
十七日目 ヨハネによる福音書1章42節
ポイント : 承認
「イエスは彼を見つめ」
あたたかな、人格的な出会いをしたペトロの口から思わず出てきた言葉が、信仰告白でした。
「メシアに出会った」
そして、その旧約聖書で預言されているメシアは「彼を見つめ」と書かれています。
現代の最大の欲求の一つが「承認」欲求だと言われています。
会社でも学校でも家庭でも、この承認欲求を人々は求めています。
自分が認められている、自分の仕事が適切に評価されている、自分はあるがままここにいても良いなど、私たちはその部分が健全に満たされる必要があります。
しかし、がんばっても成果が出にくく、自己責任論が蔓延する現代社会のなかで、多くの人々がこの部分において傷ついているのです。
ペトロの漁の腕がどれほどであり、地域で評価されていたかわかりません。
しかし、ただ一つ言えることは、ペトロの頑張りや努力、自分の生産性や世の中への貢献度など一切関係なく、ありのままの自分を受け入れられ「それでいいんだよ」といわれたのです。
キリストがあたたかなまなざしが、彼を見つめ、今まで体験したことのない、自己肯定感でこころが覆われる瞬間です。
皆さんは、見つめられる経験をしたことがありますか?
今日、ペトロに向けられたそのまなざしは、あなたに向けられています。
そのまなざしは愛のまなざしであり、「私はあなたを友と呼ぶ、私はあなたを決して離れずあなたを捨てない」というぬくもりのまなざしです。
私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない。
十八日目 ヨハネによる福音書1章42章
ポイント : 自己認識
「あなたを 岩 と呼ぶことにする」
イエス様は、ペトロをあたたかなまなざしで見つめ、そしてあなたは岩であると言われました。
「お前はだめだ」と欠点を指摘して、そこを変えなさという対応ではなく、ぬくもりで満たして心を柔らかくして、そこに大切なみ言葉の種、命の種をまかれたのです。
命の種、み言葉の種ですから、すぐに芽が出て花を咲かせ実を実らせることはできません。通常長い時間をかけてお世話をして雑草を抜き、水をやり、やっと実を結びます。
なぜ、イエス様はペトロにあなたは「岩」と言われたのでしょうか?
それは、ペトロの自己認識の中で、自分は意思の弱い優柔不断な物事を決められないダメな人間だと思っていたからではないでしょうか?
自己認識という言葉を別の言葉に変えると信仰といえると思います。
ペトロは信仰をマイナス方向へ使っていたのです。
どうせだめだ、やっても無駄、そんなことできるはずがない等、ペトロはマイナス方向に信仰を使っていたのです
イエス様は、その欠点短所を指摘するのではなく、ペトロの中にもともと眠る自分でも気づいていない良きものに焦点を当てそれを指摘されたのです。
しかし、人間は「あなたは素敵ですね」と言われても素直に信じることができません。
時間をかけて、繰り返し繰り返し自分より偉大なお方に耳元で語り続けてもらわなくてはならないのです。
試練の朝も苦難の時も、失敗や自分の姿に嫌気がさしてふてくされているときも、「いいえ、あなたは神の作品、あなたは岩です」とイエス様は3年半の時間をかけてペトロに語り続けたのです。
同じことをイエス様はあなたにし続けておられるのです。
十九日目 ヨハネによる福音書1章43節」
ポイント : 本当に豊かな生き方とは?
「わたしに従いなさい
本当に豊かな生き方が聖書に書かれています。
それは、「従う」生き方であるというのです。
イエス様は、私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たと言われる如くに、ご自分が仕える者であり、従うことを経験されました。
すなわち、自分で実践して最も価値のある生きかたであると、ご自分がまず生きて、私たちに紹介して下っています。
従うとは?
従うことは、自発的建設的能動的な行為です。本当に従う祝福を知っている人は、そこの不自由やしんどさを感じているのではなく、逆に本当の自由や充実感を感じています。
従うことは「盲従」や「脅迫」とは全く違うのです。
従うことの前提は、従う相手の人格的な魅力です。
イエス様は、私は神だから「従いなさい」といわれるのではなく、ご自分が人間の姿をとり、私たちの苦しみや悲しみを全部経験し、最後は十字架にかかって私たちの罪の負債を全部払って、父なる神様に従い通しました。
そして、どんなことがあっても私たちの味方になり、全世界の人が私を責めてもキリストだけは私をかばい、姦淫の現場で捕まった女性の視線の肩代わりをされたように、批判と非難の視線をご自分に向けて、どこまでも私を生かそう私を逃がそうとしてくださるのです。
この豊かな愛を知ったとき、人間はその愛に応えたくなるのです。
従うとは、あまりにも大きな主の愛に包まれた人が、その愛に何とか応えたいと思う自然な行為なのです。
二十日目 ヨハネによる福音書1章46節
ポイント : 不必要と思えることの中にある恵み
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
フィリポは自分の人生の中になされている主の大きな愛と恵みをしり、キリストに従い、ナタナエルに向かって「旧約聖書で預言されているメシアに出会った。それはナザレのイエスである」と伝えました。
その時ナタナエルから出てきた言葉が46節の言葉です。
これを思考のゆがみといいます。
祝福が足元にあってもそれらを蹴飛ばして歩む人もいれば、100人が100人ともそんな酷い悲惨な経験をしておかわいそうにと言われる人が、ひたすら上を見上げ「失望の谷が深ければ深いほど希望の峰はなお高い」と笑顔いっぱいで歩く人もいるのです。
ある人に、このような大変な日常になり、また日曜日に教会を開けないのは初めてだと愚痴っぽく言うと、「でも困難の中でこそ信仰は成長するのでしょう。」と言われました。
この中から良きものが出るはずがない、良きものがあるはずがないという思考をもって物事を見ると、祝福は決して見えてきませんが、神の約束であるみ言葉をもって自分の人生と現実を見つめなおすときに、「万事あい働きて益となる」という神の側から人生を見つめなおすときに、かすかな光をどのような場所でも見出すことができます。
そして、あなたの人生が苦しいものであればあるほど、この神の側からの物事を見る訓練をすると、いえ訓練をしている姿こそ人を慰め励まし引き上げてお釣のくるものではないかと思うのです。
その人こそ人生の達人だと思います。
二十一日目 ヨハネによる福音書1章46節
ポイント : 恵みのただ中に飛び込む
「来て、見なさい」
ナタナエルは、自分の考え方の偏りにより、祝福恵みを聞いてもそれが心に響くことはありませんでした。
フィリポは、あつい情熱をもって救いの君メシアを紹介しましたが、自分の考え方に対するこだわりから、ナタナエルは祝福を逃すのです。
そんな、頭でっかちで自分の経験や自分の考えが全てとこだわる頑固なナタナエルに「来て、見なさい」とフィリポは言うのです。
この「来て、見なさい」とは、恵み祝福の泉があなたの前にあるのだから、信じて飛び込みなさいという勧めです。
ギリシャ語の「知る」という言葉には、二つの単語があります。一つは、新聞やテレビなどで見たり聞いたりして知っている、知識において知っているという表現です。
もう一つは、現場にて実体験して、うまく説明はできないが経験において知るという言葉です。
阪神大震災の時、テレビを通して見ていた現状と実際に救援物資をもって入った現状では、まったく違うという経験しました。
フィリポは、プライドや過去の栄光が邪魔をして、救い主の祝福にあずかれないナタナエルに対して「来て、見なさい」すなわち、祝福に飛び込んでみなさいと言ったのです。
ペシャワール会の中村哲先生は、実際にアフガニスタンに入り、報道で見聞きしていたことと実際の感覚が大きく違うことを知りました。
そして、現地で医療施設を100作るより、新鮮な水が流れる川を一本引くほうが命を守ることができると知ったのです。
そして、たくさん新鮮な水を引き、多くの人の命を守ったのです。
イエス様は、私たちの現実に飛び込んで、私たちのただ中から「それでも大丈夫」と力強い救いを実現してくださったのです。
今まで先延ばししていたことを、今日実行に移しませんか?
二十二日目 ヨハネによる福音書1章47節
ポイント : 有言実行
「彼はまことのイスラエル人だ」
イエス様は、ナタナエルがご自分の方に来るのをみて、「彼こそ、まことのイスラエル人だ」と言われました。
イスラエル人とは何か? 何のことをイエス様はいわれたのか?
その答えは、そのすぐ後に「この人には偽りがない」と言われた言葉にヒントがあります。
偽りがないということは、うそをついたことがないというのと違います。もし、ナタナエルが自分はうそをついたことがないと言ったとしたら、彼は偽りものです。
そうではなく、神の前に自分を認めることができるということです。
ヨハネの手紙Ⅰ1:9に「自分の罪を公に告白するなら、その罪をゆるし、あらゆる不義から私たちを清めます」と書かれています。
神の前に、自分は不義あるもの罪びとであることを認める。自分がかけた存在であることを認める。
しかし、そのような箸にも棒にも掛からぬ存在であることを認めつつ、それによって自分を卑下することもなく、逆に開き直ることもなく、ただただ神の恵み、神ご自身のご性質「慈しみ」に信頼を置いて、そんな自分すら受け入れて、そんな自分すら十字架により人生を肯定する生きる。
イエス様の十字架のゆるしと愛を、心底受け入れて生きる人は、自分の人生における取り返しのつかない過去や過ち、償うことのできない保証など、二度と顔を前に向けて歩めないと思えるような中でも、自分に与えられた神の使命、ミッションのみを意識して、そのことの実現のために残りの時間、残りの人生を使おうとします。
本当に有言実行を生きる人は、自分に向けられた洪水のような主のゆるしに押し流されて、自分の使命に全力投球できる人です。
二十三日目 ヨハネによる福音書1章48節
ポイント : 知られている私
「どうして私を知っておられるのですか」
ジョハリの窓によれば、「4つの自分の姿」あると書かれています。
1、 自分も他人も知っている自分の性質(解放)
2、 自分は気づいていないが他人は知っている性質(盲点)
3、 他人は知らないが自分は知っている性質(秘密)
4、 自分も他人も知らない性質(未知)
ご存知の通り、解放の窓を広げ未知の窓を狭くすることを「成長」と言います。
私は、20代の頃牧会伝道に行き詰まり、どうしてよいかわからないときに、恩師柿谷先生に出会いました。
そして、3年半かけて心理学とカウンセリングを学ばせていただきました。
集中講座の最終日に、共に学んだ一人一人の長所を書いて、その人にプレゼントするという時間がありました。
私がまず驚いたのは、人の長所を見つける生き方をしてこなかったので、他者の長所を見つけるのが非常に難しく、書くのに時間がかかりました。
また、他の人から長所として書いてもらったことが大変うれしく、その中に書かれていたことは自分では気づいていない部分でありました。
その中の最大の驚きは、自分は短所と思っていることを「長所」として書いてくださったことです。
あなたを愛しあなたをお造りになった神は、あなた以上にあなたのことをご存知で、これはいらない短所であるという部分を長所としてみておられるのです。
神は、あなたをとことん知っておられます。
二十四日目 ヨハネによる福音書1章48節
ポイント : 作成者の意図
「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」
この聖書の箇所は、本当に不思議な箇所です。
イエス様は、当たり前のことを言っておられても、私たちは何のことかさっぱりわかりませ
ん。
それどころか、旧約聖書をしっかり勉強していたユダヤ人でさえ、またその指導者でさえわからなかったのです。
ある時、一人の青年が人生に行き詰まり、自殺願望にかられ着の身着のまま家をでて、ある旅館に泊まりました。
明日は、自殺をしようとして眠りにつこうとしたとき、旅館の大きな時計が鳴り出しました。
よく見ると、ぜんぜん時間が間違っておりこの青年は宿の主人に、時計が壊れていますよと声をかけようとしまた。
その時突然、時計が壊れたら修理のため時計屋さんにもっていく。私のように人間が壊れて明日に希望や夢が持てないとき、いったいどこへ持って行けばよいのか?と考えこんで、その晩一睡もできなかったそうです。
そして、明け方近くに「人間が壊れたら、人間を造られた創造主に」と思い、教会へ飛び込んだそうです。
ナタナエルは、自分は信仰があると思っていたのに、自分の悩み困難や問題に押しつぶされて、何の喜びもないという壊れた状態でいちじくの木の下にいたのです。
イエス様は、「全部知っているよ」と壊れた状態のナタナエルを優しく包み、壊れて傷ついているそのところに、癒しのみ手を伸べられたのです。
その時、ナタナエルは作者の創造主の自分に対する意図が、苦しみの意味がその壊れた部分からしみ込んできたのです。
私はあなたに計画を持っている。それは災いではなく平安である。
二十五日目 ヨハネによる福音書1章49節
ポイント : 口の告白 アファメーション
「あなたは神の子です」
ナタナエルは、旧約聖書で預言されているところのメシアに出会いました。
しかも、そのメシアは、ナザレ出身であり、昔の言い伝え「ナザレから良きものは出ない」という、自分の固い自我からは決して発想することができない、恵みの神の素晴らしさに心満たされていました。
そして、自分の悩み困難がそれは、自分をダメにしてしまうものではなく、自分の人生にそのことを通してなされる神様の深いご計画であることを知りました。
私は母子家庭であったので、その同じ経験をしている人の寂しさ辛さ苦しさが、手に取るように理解できます。
しかも、信仰を持ちキリストとともに歩ませていただいて、その経験が悪いものではなく、自分の宝であり、それを通して多くの人へ神の愛を流せることも知りました。
ナタナエルは、その深いご神の計ることのできないご計画を知ったとき、「あなたは神の子です」と自分の口を通して信仰告白したのです。
この言葉は実に大切で、その計画を自分は受け取りますという信仰告白であり宣言なのです。
人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われる と聖書にありますように、言葉にして口に出すことは非常に大事です。
一日の初め「主は今日もともにいて、私のすべてを祝される」という言葉で始めましょう。
二十六日目 ヨハネによる福音書1章50節
ポイント : あなたの口を大きく開けよ。
「もっと偉大なことをあなたは見る」
ナタナエルは、救い主と出会い自分の人生が今目の前にある問題や苦難で終わるのではなく、そのことと通して神様が大きな栄光をあらわされるということを信じました。
使徒パウロは、自分の弱さを取り去ってほしいと3度も主に願いました。
これは、3度という回数でなは、何度も何度も徹底的にという意味です。
しかしイエス様は、「私の恵みあなたに十分である。」我力でない神の恵みは、不必要と思える弱さを通して外にながれ出る。
そのことがはっきりと理解できたパウロは「私は弱さを誇る」とまで言ってのです。
人間はなぜ完ぺきではなく、弱さがあり、失敗して人に迷惑をかけたりするのか。そんなもの克服して、強い人間になればいいのに。
しかし、人間の強さなどたかが知れていて、とても神様の栄光をあらわすことができない。
しかし、弱い人間が自分の弱さを認めて、認めただけでなくそれをかけがえのない自分の宝と感じるまで主を信頼するとき、その弱さの部分が人を癒し始めます。
ところが、イエス様はそれだけでなく、それ以上の祝福をあなたに用意しているとナタナエルに語ったのです。
祝福と恵みがあなたを追いかけている。
もっと恵まれていいのです。
二十七日目 ヨハネによる福音書1章51節
ポイント : 救いの君は共にいる
「天が開け」
イエス様は、当たり前の現実、天の現実を語ります。
しかし、人間であるナタナエルは、天の現実を語れても、今まで経験したこともないし、見たことも聞いたこともないことを、イエス様から聞きました。
それが「天が開かれる」という言葉です。
そして、人生のすべての解決はこの言葉にあることをナタナエルは、感じたのです。
ラジオ牧師の羽鳥明先生が、ご自分の恩師の牧師の証を語っておられました。
この羽鳥先生の恩師は、変わった牧師で教会を開拓して、大きくなったら別の牧師を招いて、自分は新しい教会を作るために開拓に出る。
ある時、長野県の小さな村に開拓伝道に行かれました。
終戦直後で食べものはなく、牧師先生とその家族は食べるものにも困り始めたそうです。
先生が千曲川のほとりで、一生懸命主に祈っていると、今日の言葉のように天が開かれイエス様がそこにおられたそうです。
その証を「羽鳥くん本当なんだよ。天が開けイエス様が見えるんだよ」と昨日のことのように話してくださったそうです。
私たちが最も知らなければならない現実は、すでに天は開かれていることです。
あなたは何をしても栄えるという約束の中にいることです。
十字架を通して天のお父様を仰ぎ見ることができることです。
そして、天のお父様は今日も豊かです。
二十八日目 ヨハネによる福音書2章1節
ポイント : イエス様は来客か?
「イエスも弟子たちも婚礼に招かれていた」
有名はカナの婚礼での出来事です。
結婚式は、そのカップルにとって人生最大のイベントであろうと思います。
私の結婚式は、まったくお金がなく、司式者などに十分なお礼すらできませんでした。
来場者には、100円のケーキをお出しするのが精一杯で、宣教師が無料でチェロを演奏してくれました。
このカナの婚礼での最大のポイントは、主イエス様がそこに来客としておられたということではないでしょうか?
どんなに派手でお金のかかった結婚式であっても、そこに一番大切なイエス様が来ていないとしたらどうでしょう。
また、結婚式だけでなく、人生のいろいろな出来事の中に、主イエス様がおられないとしたらどうでしょうか?
私たちの慰めは、どのような失敗や取り返しのつかない過去の出来事の中に、確かに主イエス様は共におられたということでなないでしょうか?
ここの箇所は実に不思議です。
なぜ、このカップルはイエス様とその弟子を招いたのでしょうか?
そんなに親しい間柄であることは、この箇所より読み取ることはできません。
私は、親しいと自分で思っていた方からの結婚式の招待状が来ませんでした。
ですから、この箇所はイエス様のお母さまマリア様が招かれたので、その息子と全く関係のない弟子たちがぞろぞろついてきたと解釈する方が自然です。
解釈は自然ですが、「だれあの人達」と場の雰囲気はじつに不自然なのです。
しかし、イエス様は来客どころかすべての失敗を覆いつくす、贖い主として下座に謙虚におられるのです。
二十九日目 ヨハネによる福音書2章3節
ポイント : 不足の事態こそ祝福の始まり
「葡萄酒がなくなりました」
結婚式の中にイエス様と弟子たちが招かれていました。
そして、結婚式で絶対起こってはいけないできごと、やってはいけない失敗が起こってしまいます。
当時のユダヤの社会の結婚式で葡萄酒がなくなるようなことはあってはいけない大問題です。
すなわち、この主催者は基本的な準備を怠っていたのです。
何があったのでしょうか?気のゆるみ、もしくは確認を怠ったのか、最低の報告連絡相談がなされず組織として機能していないのか。
しかし、絶対あってはいけないことがらから湧き出る本物の恵みがあるのです。
それは足りないこと、不足という恵みです。
私たちの人間の価値観、発想はたくさん集めること、増えること、生産性が上がることがよいことであり、心に安心をもたらすことであると思っています。
それも大切な真理だと思います。
しかし、聖書は「足りない」経験、「不足」の経験を悪いこととして描いていないのです。
尊敬する牧師が「なくなっていく、減っていく」ことで心が平安になるとしたら、それは本物ですと言われていました。
周りの人も、イエス様の母マリア様も不足の事態に心は不安でいっぱいになったのです。
しかし、不足を通してしかあらわされない神様の栄光があるのです。
三浦綾子さんは、大腸がんになったとき「神は私をえこひいきしておられる」と言われました。
それは、そのこと(不足)を通して今まで経験したことのない平安を神様から頂いたそうです。
上には上がいるようです。
不足を通して、無尽蔵の祝福をいっぱいいただきたいものです。
三十日目 ヨハネによる福音書2章4節
ポイント : すべてに時がある
「私の時はまだ来ていいません。」
神様の時と人間の時は違います。
神様の計画と人間の計画は全く違うのです。
母子家庭だったこともあり、私の家は非常に貧しく友達を見てうらやましと思ったことが何度も何度もありました。
ですから、自分の進路や将来の設計も漠然とですが考えていて、将来は高校を卒業したらすぐに就職して、家計の負担を少なくして、母親の負担を少なくしようと思っていました。
しかし、高校2年生の16歳に思いがけず教会に導かれクリスチャンになりました。
クリスチャンになったときには母親に全く相談せずに、洗礼(バプテスマ)を受けました。
家に帰ってそのこと告げると、大変驚いていましたがゆるしてくれました。
しかし、高校を卒業して進学か就職かという悩みの時に、私の心に全く違う道、献身の道が示されたのです。
18年間生きてきて、そんな生きかたを教えられもしませんでしたし、そんな思いに自分が導かれるとは全く考えていませんでした。
母にそのことを告げると「信仰で飯が食えるのか?」と言われました。
まさにその通り、女手一つで大変苦労して育ててくれたことを思うとその通りだと思いましたし、私には詳しく話しませんでしたが、母は何度も人間関係のトラブルに巻き込まれて、大変大きな損失と苦労を重ねていたようです。
しかし、イエス様は「わたしに従いなさい。人間を捕る漁師にしてあげよう」と言われるのです。
あれから34年間、こんな私に神は真実を尽くし続けてくれました。
自分の人生の中に敷かれた神の計画があり、それをいろんな苦しみや試練を通らなければ決して気づくことができないようにして、ベストのタイミングで神の時が私を捕まえてくれました。
あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたの人生に敷かれた神の計画と神の時があり、一番良いときにあなたを祝福しようと神は待ち構えているのです。