聖書一日一章Vol.2
聖書一日一章 Vol.2
一日目 ヨハネによる福音書 2章5節
ポイント:基本に忠実
「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」
大事な結婚式で大事な葡萄酒がなくなりました。
イエス様の母マリア様はそのことを知り、イエス様にそのことを告げました。しかし、その時「人間の時」と「神の時」があることを語られました。
その答えを聞いたとき、マリア様が召使いに言った言葉が上記の言葉です。
召使いにとって簡単で当たり前のように思いますが、基本がしっかりしている人物でないとこの言葉を理解することはできません。
人間は我流ではなく、しっかりとした師匠についてその道のプロについてしっかりと学ばないと基礎は確立できません。
また、我流ではなくいつも基本に忠実に生きることをしないと、人を本当に救い慰めることはできなのです。
以前、四国で行われたカウンセリングの初級の基礎講座に出席しました。
その時、主催者のその道の権威の方が私に向かって「何をしに来られましたか?」と聞くのです。実に意地悪な質問です。
私は「基本から外れないように、我流にならないように基本に戻りにまいりました」と答えました。
我流は自己満足しか生み出しませんが、徹底的に基本に生きることを学んできた人は、その土台の上で自分の個性を本当の意味で発揮し、多くの人に届くとこができるとわかっているのです。
マリア様が「このお方が言われることは、その通りに」と言われるとき、基本を学んでない召使いや中途半端で終わっている召使いならば、よく似ているがどこかで自分が出てしまい「その通り」ではないのです。
また、基本は同じ事の繰り返しですから、時につまらなくやりがいもないのです。
「すべてに神の時がある」と言われるように、私たちも「すべてに神の時がある」という言葉に戻り続け、戻り続け、それが普通になるまで、またそうでない事柄が目の前に起こっても、戻り続ける一日でありたいものです。
「その通り」まで基本を貫く。
2日目 ヨハネによる福音書2章7節
ポイント:「人を生かすものは?」
「水瓶に水をいっぱい入れなさい。」
仕事で一番しんどい場面は「自分はやらされている」と思う時です。
逆に自分が仕えているにも関わらず、一つもしくわ二つ上のポジションであるならばどのような意識で仕事をしているだろうかと考えてする、同じことをしていてもその人の成長の度合いは全く違い、上の立場の人から見て何か違うものを感じる人物になります。
今日の箇所で、大きなユダヤの水瓶6個全部になみなみと水を張りなさいとイエス様が言われた場面です。
そんなにたくさんする必要は全くなく、6個全部に水をいっぱいにする意味や理屈など全く理解できません。
特に合理的で生産的な考え方が身に染みていると、なんと非生産的でなんと非合理的なことであるかとイエス様に抗議をしてしまうのではないでしょうか?
しかし、人間はそんなに合理的生産的に生きることができません。
私たちは、年をとればできることが少なくなり、ある時期を境に肉体的に精神的に衰えが出始めます。
時代の価値観に騙されることなく、合理的生産的であることのみが人を生かすものでないことを造り主の愛の中で経験し、神様ご自身にいっぱい無駄と思えるようなことをしてもらい自分自身が生かされる経験を持っている人は幸いです。
なぜなら、6個の水瓶を水でなみなみと満たすという一見無駄で非生産的なことが、実は神の愛で満ち満ちて「恵んであげたい」とあふれている神様の豊かな恵みであると理解できるからです。
そして、十字架の愛こそ「ゆるしたい、恵みたい」という非生産的な神の愛に他ならないのです。
ここに注がれた水は、豊かにあふれる神の愛そのものです。
だからそれが葡萄酒となり、人の心を生かし慰めるのです。
3日目 ヨハネによる福音書2章8節
ポイント 「今でしょ」
「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」
イエス様は非生産的な事柄を通して神の愛の豊かさをお示しになりました。
無駄と思えるような深い恵みでないと、私たちは救われることはありませんでした。
そして、なみなみと注がれた水瓶の水を「さあ、それをくんで持って行け」と実に無理なことをイエス様はおっしゃるのです。
皆さん水ですよ。この召使いは水を宴席に持って行った瞬間にくびです。
次の仕事先でも見つかっていないと、わたしには持っていく勇気はありません。
ではこの箇所は作り話なのでしょうか?
このような行動ができる人がたった一人だけいるのです。
それは「変化に対して柔軟な考え方」ができる人です。
もしこの召使いが「水が葡萄酒に変わるはずがない」と固く思っていたらどうでしょうか?
しかし、「神の時」があると言われる方が「神の業」をなされるかもしれない。
それが非科学的なことであっても。
その昔ある兄弟が「鳥のように空を飛びたい」と思いました。しかし、当時の科学では人間は空を飛べるはずがないと言うのが一般的で、すべての人は「そんなことできるはずがない」と言ってこの兄弟を馬鹿にしていました。
しかし、1903年12月に259、6mライトフライヤー号は、大空を飛んだのです。それを、大手の企業が見ていました。そして、飛行機ができました。
「今でしょ」と今を生きる人の特徴は、変化にたいして柔軟な考え方を持ち、目の前の出来事に「それではやめよう」ではなく「ならばやってみよう」と生きる人ではないでしょうか。
4日目 ヨハネによる福音書2章9節
ポイント:成功体験
本当に素晴らしい言葉です。
「水をくんだ召使だけは知っていた」
青年白書によりますと、現在の若者、特に中学生高校生は自分はダメな人間だと考えている人の割合が、他国よりも多いと書かれています。
中学生高校生ですから、そんなに人生経験が多いわけでもなく、まだ何も失敗といようなことも経験していないのに自信がない若者が多いのです。
振り返れば、私自身も自分に自信が全くなく、小さな存在である自分をなんとか覆い隠すために破壊的な行動をしていたものだと思い返します。
自分は勉強でも運動でも人より劣っており、芸術面でも音楽面で全くダメでした。
残りは悪い行いでしか目立つことができなので、そちらでしか自分の存在をアピールする方法がなかったのです。今考えると実に愚かです。
キリストに出会うまで、行いでしか自分の存在の価値を確認できなかったのです。
今日の箇所に書かれている成功体験は、自分の頑張り行いではなく、主イエスと共に生きることにより、主の言葉にただ従うことによる成功体験です。
自分の頑張り努力で人を喜ばせ、何かを成し遂げるならば自分の自信になることであろうと思います。それはそれで大切なことです。
しかし、キリストの恵みただキリストの恵みによって自分が、こんな自分が用いられたことによる成功体験は、人を謙虚にするのです。
水をくんだ召使は、大きな奇跡のために用いられましたが、そのことの故に自分が用いられる喜びと共に、なお一層謙遜に神様に信頼するものに変えられたに違いありません。
そして、人間の本物の自信は、自分の頑張り努力より、神の通り良き管になることによって、自分を通してなされる成功体験によるのです。
「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」という使徒パウロの力強い言葉は、従うことにより生まれた彼の自信なのです。
5日目 ヨハネによる福音書11節
ポイント:栄光とは?
「最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を表わされた。」
イエスキリストがその公の生涯において、最初の奇跡がこのガリラヤのカナの婚礼での出来事でした。
水を葡萄酒に変えるという奇跡を通してその栄光を現わされました。
そして、この奇跡を聖書は「栄光」と表現しています。
栄光とは一体何でしょうか?
栄光とは、その婚礼にたまたまイエス様が招かれていたこと。
栄光とは、ありえないミス、婚礼の主催者が一番大切な葡萄酒の準備を怠ったこと。
栄光とは、「葡萄酒が足りなくなった」とあるように不足の事態に陥ること。
栄光とは、召使が無駄と思えるイエス様のご命令「水瓶に水をいっぱい」を合理的なことや生産的なことを超えて従ったこと。
栄光とは、水が葡萄酒に変化するという質的な変換が起こったこと。
栄光とは、この出来事の詳細を婚礼の主役が知ったのではなく、日の当たらない召使だけが知っていたこと。
私は、これらすべてが神の栄光に思えてならない。
作家の三浦綾子さんが、「もし、病気が癒されることのみが神の栄光であるならば、私は一生涯神の栄光を現わすことはできません。なぜなら、私は病気の問屋です。」
そして、三浦綾子さんの言葉「私はがんになって神に依怙贔屓されていると思った。」
私たちは、DO「行為」のみにあまりにも焦点が当たりすぎていて、大きくなること繁栄すること、生産性が上がることのみが神の栄光と思いやすい。
しかし、栄光とはBe「存在」である。
全てそのみ手に握られて益、神の栄光の手の中に私たちの人生はすでに「ある」のです。
栄光から栄光に主と同じ姿に変えられる。
6日目 ヨハネによる福音書2章14節
ポイント「相応しい生き方」
「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。」
ユダヤの過ぎ越し祭が近づいたので、イエス様はエルサレムへ旧約聖書の教え通り上って行かれました。
そこで目にしたのが、神の神殿の境内において行われている出来事をご覧になったのです。
本来境内は、このようなことに使うためにあるのではなく、神を礼拝するためであります。
なぜこのようなことが起こってしまったのでしょうか?
言葉を変えれば、信仰が形骸化して自分の生活の中では全く無意味な出来事、行為になっていたのです。
私は当時のユダヤの民の自己認識の欠如によるものと思えてなりません。
立場が人を造ると言いますが、人間は神に造られ神に愛された尊い神の作品である。ということが信じられなかったのではないでしょうか?
平成天皇が皇太子殿下であられたとき、銀座を公務で歩いておられました。
その時に、殿下がある一軒のお店の前に立ち止まりショーウィンドウごしに、中のものを物欲しげに眺めておられたそうです。
その時にお付きの方が殿下の耳元で「殿下ご身分、殿下ご身分」と言われました。
すると皇太子殿下は、すっと背筋を伸ばし元の調子で歩いて行かれたそうです。
ユダヤ民族は、「神の栄光あらわす神の尊い作品」と言うことを本当にどれだけ意識して、どれだけ本気で信じていたのでしょうか?
自分が造り主、「YHWH」発音すら許されない、神に属する聖なる民であることを、どこまで受け止めていたのでしょうか?
同じように、あなたもこの主に属する「神の子ども」になったのです。
しかもそれは、DO「行い」ではなくBe「存在」キリストの十字架で存在そのものが受け入れられているのです。
7日目 ヨハネによる福音書2章15節
ポイント「うちに秘める情熱」
「イエスは縄で鞭をつくり、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし。」
このようなことを、あのやさしいイエス様がなさるとは想像できません。
牛や羊を境内から追い出すのはわかりますが、お金をまき散らしたとまで書かれています。
イエス様は、何と情熱的なお方でしょうか。
神学校時代にお世話になりました、「陶器士」ことフレッドスンベリ師は、本当に情熱的なお方でした。
学生に全力でぶつかり、お互いが傷つくことや自分の評価などがどのようになるかなどを恐れることなく、全力で学生の自我が砕かれて、通り良き働き人になるように、働かれました。
私はある時スンベリ師に呼ばれ、学校の本館の横にある別館に連れていかれ、自分がこの別館の設計など必要なことは全部設計者や大工さんに伝えたと言われました。
当初、何のことを言っているのか全く理解できずにいましたが、「松原さんあなたはいい子過ぎる、」「私は、自分の思いや考えを人に告げることに遠慮をしない」「私は人の目は怖くない」と言われました。
人の思いや考えを配慮して、自分の感情を押し殺してしまっていた私にとって、人に合わせるということは、その人にとって良い人に映るかもしれませんが、それはどうでもいい都合の良い人だと言うことに何年も後になって気が付いたのです。
その先生が、「私はもっと感情的でありたい」という言葉を残されていると知り、大変驚きました。先生は、これでも抑えておられたのです。
私は、自分が感情的であるより、もっと理論的に冷静に物事を進められるようになりたいと思っていましたし、それが良いことであり神に受け入れられることであると誤解していました。
なんでもかんでも自分の感情を出せばよいというのではありません。
しかし、イエス様がうちに秘める情熱をそのまま表現されて、「お金をまき散らす」とまで書かれていることに驚きます。
イエス様は、自分の評価や時代の価値観よりもっと大切なものを意識して生きておられたのだろうと思います。
そして、イエス様が全力で自分の情熱を注ぎだされたのが、カルバリの十字架です。
その情熱は、人を赦し、人を生かすことに使われました。
当時のユダヤ人には全く理解できませんでした。
8日目 ヨハネによる福音書2章16節
ポイント 所有意識
「私の父の家」
本当に不思議な言葉です。
エルサレム神殿を指して、「これは私の父の家」と言われたのです。
エルサレム神殿がイエス様のお父様の家であるならば、それはイエス様のものでありイエスの家であります。
ですから、ご自分の家の庭で羊や鳩の売り買いをして、両替商が自分の私腹を肥やすために我がもの顔で商売をしてる姿に違和感を覚えられるのは当然です。
それでは、私と私の人生の「所有者」はだれなのでしょうか?
Ⅰコリント3:16「あなた方は神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。
ある方が、人生という大海原を旅する私たち。「そのタンカーの所有者は天の神様、船長はあなた」と言われました。
別な言い方をすると、全部貸し出されたものということができるのではないでしょうか?
「心のチキンスープ」という本に、ある女性が昼食後公園で自分の大好きなクッキーをつまんで食べていました。
ところが相席の初老の男性が、こともあろうに自分のクッキーの袋に手を入れてそれを食べ始めたそうです。知らぬふりをしていましたが、最後の一枚になったとき、その初老の男性がクッキーを手に取りにっこり笑ってそのクッキーを半分にして差し出したそうです。これにはさすがに怒りが込み上げてきて、何も言わずに席を立ったそうです。
しかし、部屋に帰って自分のカバンの中に目をやると、同じ袋の自分のクッキーがそのまま出てきたそうです。その通り、彼女は男性のクッキーを食べていたのです。
人生も自分のものと思う時、思うとおりにならないと怒りが込み上げてきますが、聖書はあなたの人生の所有者は天のお父様であると書かれています。
平安な人生の秘訣はここにあります。
9日目 ヨハネによる福音書2章19節
ポイント 行為ではなく存在
「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」
ユダヤの人々は、主イエス様の言われている言葉が全く理解できず、「どんなしるしを見せてくれるのか」と詰め寄るのです。
しかし、その質問に対するイエス様の回答と彼らの理解力の差がありすぎて、そのことも全く理解できなのです。
イエス様は「三日で神殿を立て直す」すなわち、ご自身の死と葬りと復活のことを言われました。作るのに46年間かかったエルサレム神殿より、主の甦りの方がはるかに難しいのです。
そして、この言葉に隠されているイエス様の愛やぬくもりを理解している人は、全くいませんでした。
主イエス様は、私たちの罪を背負い十字架にかかり、ご自分の神殿、ご自分の体をすべてささげて死んでくださいました。そして、すべての罪に代価を払って3日目に甦り、今も生きておられます。
私は、自分の功績が理解されないと腹立たしい思いになります。それほど、核となる存在が弱く、外側のDO行為に自分の心の拠り所を求めてしまう弱い存在です。
しかし、存在そのものに自信がある、存在そのもので勝負できる人は、外側の行為や功績があまり気にならないようです。
それでは、存在BEを強くするにはどうした良いのでしょうか。
それは、存在そのものにエネルギーのある方と共に時間を過ごすことです。
そして、すでに存在そのものに実力のなる主イエス様は、「私は決してあたなを離れず、あなたをすてない」と言われるのです。
10日目 ヨハネによる福音書3章1,2節
ポイント 生涯学び
「ニコデモという人がいた。ユダヤ人の議員であった。ある夜、イエスのもとにきて」
ニコデモはファリサイに属する立派な議員で、人々の信頼も厚く人々のため神のために仕える人でした。
また、道徳的にも精神的に自分を磨くことを怠ることのない人物であったと思われます。
私は学生時代勉強が嫌いで、嫌いというより全く理解できず、本当に勉強の喜びを知らないまま現在に至っています。
また、神学生時代は、神学校を出てからが本当の学びである、実地教育を重んじる校風でしたので、こちらもあまり学びを重要に考えていませんでした。
私もそのような考え方が強く、信仰で切り開いていかなければならないと感じて、早く実地に遣わされたいと願ったものでした。
しかし、いったん実地に遣わされると何もない自分に気づかされる毎日です。それにも関わらず、「牧師先生」と言われなんでも知っている、なんでもできるかの如くに言われているような気がして、大変つらい毎日を送っていました。
40代を超えたころ、なぜもっと学んでおかなかったのかと深い後悔と残念の思いが心に強く湧いてきたのです。
なぜなら、本当に学ぼうと思えば立派な先輩牧師や指導者に囲まれていたからです。にもかかわらず、私の心は学ぼうという気持ちになりませんでした。それほど思い上がっていたのです。
もし、先輩のH先生ならこんな時どのようにされるだろう、あのS先生ならばどんな風にこたえられるだろうと40歳を過ぎてから、先輩のカバン持ちをした気持ちにかられました。
ニコデモは、どんなに自分が上の立場になっても、自分より年齢も若いイエス様のところにわざわざ来て、教えを乞うたのです。
時間がないからテープですまそう、本で済まそう、というのではなく、その人本人のまえで学びを受けると、知識と共にその人の中にある肯定的エネルギーに必ず触れるのです。
11日目 ヨハネによる福音書3章2節
ポイント 学ぶとは?
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるしるしを、だれも行うことができないからです。」
ニコデモは、イエス様を「教師」と表現しました。
学ぶこととは、「力を新たに身に着けて、その身に着けた力をつかって、新たな世界を広げるということ」とH教授は言われました。
ニコデモは、ファリサイ派の中で学んだことだけでは、どうしても平安になれなかったのです。
それは、ニコデモが自分の言葉で表現した、「神が共におられる」とい世界です。
ニコデモは、厳格なファリサイ派に属して聖書をしっかり学んでいながら、「神が共にいる」という平安な世界からは、程遠い人生でした。
「教育」とは、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるため、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。と辞書に書かれてあります。
私は、そこで一番重要なものは「教師」であると思います。
「何を」より「だれと」ではないでしょうか。
同じことを学んでも、言葉は「希望」を語っても、語っている者、その教師が本当に希望を持っているのか、毎日惰性で生きているのかでは、全く違うと思います。
希望の説明、平安の説明、また神が共におられることの説明はできても、どんな時も約束を信じて希望に生きており、説明はわかりにくくても「あなたを見ると神が見える」というような本当の平安に良い教師は生きているのです。
イエスは良い教師です。
あなたに意図的に働きかけて、神が共におられることを、あなたの内側に平安をもって教えてくださるのです。
12日目 ヨハネによる福音書3章3節
ポイント 神の国が見える
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
「はっきり言っておく」とイエス様は、奥歯に物が挟まったような言い方ではなく、物事をはっきり表現されましたが、実によくわからないのです。
それは、私たちの価値観や過去の経験のどれにも当てはまらないからです。
「新たに生まれる」と言われても、全く皆目見当がつきません。
ニコデモも、自分の中にある「生まれる」とい知識経験と、イエス様の言う「新たに生まれる」と言う言葉が結びつきません。
すなわち、私たちが足を踏み入れた信仰の世界、イエス様を通して与えられた永遠の命は私達の価値観や過去の経験をはるかに超えて豊かすぎるのです。
5㎏しか持つ筋力のない人は、10㎏のものを持たされた時に腕にかかる負担の大きさの痛みと苦しみのゆえに、中身どころではありません。
私達は恵みによる成長がどうしても必要です。
私がクリスチャンになったころ、滋賀医大の医学生がクリスチャンになりました。N兄は苦労人で一度入学した大学で、どうしても医師になりたいとう思いを諦めきれず、30歳前にして医学部に再受験しました。
高校生であった当時の私を大変愛して、ドライブや昼食に連れて行ってくれました。また、勉強のできない私に、大変時間をとってテスト対策をしてくれました。
私が神学校に進むとき、払う学費が足りなのでアルバイトをしながら通うことになりましたが、N兄がバイトの面接や身元の保証もしてくれました。
そのN兄があるとき私に「死ぬのはこわいですか?」と聞くのです。もちろん、どのような工程を通るのか事故か病気か、さまざまな不安がないわけではありまませんが「イエス様に救われて怖くなくなりました」と答えると、N兄も「ぼくもそうなんだよ」とやさしく微笑んでいました。
その時二人で、イエス様を通して「神の国」を見ていたのかもしれません。
13日目 ヨハネによる福音書3章:4節
ポイント どうして?
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうしてうまれることができましょう。もう一度母の胎にはいって生まれることができるでしょうか。」
イエス様は、神の国に生きる秘訣を「生まれる」と表現しました。
ニコデモは、ファリサイ派に属し当時の人々の中では、エリート街道を走る人でありました。
しかし、イエス様の言葉を理解できないのです。
苦しまぎれに出てきた言葉が「どうして、、、、」なのです。
「どうして」と言う言葉は「どうーして」と、方法についての疑問、または原因、理由についての疑問を現わす言葉です。
私個人的には、この「どうして」と類似語である「なぜ」もイエス様に対して使わないほうが良いと思っています。
なぜなら、その原因の理由や疑問に神が答えても、その原因を知ったとしても決して幸せにならないのです。だから、「なぜ」「どうして」に神様はお答えになりません。
私は16歳で信仰の道に入って以来、「どうしてですか?」「なぜですか?」という言葉を神様に向けて使い続きていました。
神様は私のことを心から愛しておられるので、このように私が祈るたびにその心を痛めておられたであろうと推測します。心かたくなな私は、何十年も同じことを繰り返して、神様のお心を理解しようとしなかったのです。恥ずかしことです。
しかし、神様は忍耐強く私を見捨てることなく「どうして」「なぜ」に変わる言葉をくださいました。
それが、「どのように受け止めたら」と「どのように考えたらよいですか」という言葉です。
私達は人間ですので、自分の方向からしか物事が見れませんし、自分の過去や価値観からしか状況や問題を受け止め判断できないのです。実に限られた世界です。
イエス様は、全く違う「全体」「神の国」からものごとを見て語っておられるのです。そこに人生のチャンネルを合わせなければなりません。
小さな私ですが、「どうして」人生をキリストとの恵みに支えられて卒業したい。
14日目 ヨハネによる福音書3章5節
ポイント 主の恵みに覆われて
「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
イエス様がニコデモに一生懸命に教えようとしておられることがうかがえます。
イエス様は、ご自分に訪ね求めてくる人を空手で帰される方ではなく、大きな喜びとお土産までつけてくださる気前の良い方です。
ニコデモは、律法を学び神学を勉強しても平安と確信がありませんでした。しかし、イエス様は大きな平安と確信に満ちて、自分にない神の国の豊かさにあふれていたのです。
そのニコデモがどうしても知りたい、神の国に入る生き方を教えてくださいました。それが「水と霊によって生まれる」です。正直まったくわかりません。
なぜわからないのか、それは「生まれる」という言葉が使われているからです。
筑波大学のM教授は、レニンの遺伝子解読に成功された方です。この方が、常々「人間は大腸菌一つ生み出すことはできない」と言われています。科学者でありながら、自分を超えた存在「サムシンググレイト」と言う言葉を使うのです。
ですから、あなたがそこに存在していること自体すでに奇跡であり、神の御心と深い恵みさらに主の摂理の賜物なのです。
さらに、私たちが永遠の命の希望に生き、その平安が日ごとの生活の中に浸透し、どちらにころんでも大丈夫という神の国に生きるには、「生まれる」という神の業そのものなのです。
私達は、この世の誕生したとき、周りの人が全てを備えて待っていて下り、しかも深い愛の中ですべてのお世話を父母によってなされていたのです。
主の恵みはあなたを覆っているのです。
15日目 ヨハネによる福音書3章6節
ポイント 内側の戦い
「肉から生まれたものは肉。霊から生まれたものは霊である。」
天から降ってきた主イエス様ならではの言葉です。
私には全くわかりませんし、理解できません。
ニコデモも同じで全く何のことを言っておられるのか、見当もつかない状態であると思います。
私は肉から生まれたものなので、肉のことは良くわかります。なぜなら肉から生まれた人は肉のことをもっぱら考えます。
私は、主を信じる前は、自分の心と思いが肉のこと、すなわち人間的なこと自分のことのみしか考えていませんでした。
そして、悪いのは全部周りや環境状況で、自分が自己中心的で自分に原因があるとは、頭ではわかってもそれを実感としてとらえることはできませんでした。あなたが悪いから反省しなさいと周りに言われて、そんな気持ちは全くなくてもそのように合わせていたのです。
しかし、クリスチャンになり自分の心の中に、霊の部分が生まれて、神を思い神の御心や、人のために生きる思い、また感謝やありがたくない状況でありがとうと言う思いや考えが、不思議に芽生えてきたのです。
最初は、そのような思いもすぐに今までの肉の思いにかき消されて、普段通り自己中心的な思いと考えで生きているのですが、内側から肉の思いに対抗する神様のために生活したいという思いが知らない間に心の中を満たし始めるのです。
時として、私の心の中がこの肉の思いと霊の思いが激突する戦場と化しますが、いつも肉の思いが強くそれが人生を支配しています。
ところが、こんなみじめな私を神はとことん恵んで、霊の思いが心を支配するように導いてくださったのです。
それは、「風は思いのままに吹く」と言われる言葉通り、どうしてそのようになったのか全く分かりませんが、「み心を成し遂げたい」それだけが人生の目的になりました。
キリストが言われた通りです。
16日目 ヨハネによる福音書3章14節
ポイント 心の強さ
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」
この箇所は二つの意味があります。
1つは、モーセが荒れ野で蛇を上げた、すなわちイエスキリストが旧約聖書で預言されているところのメシア救い主であるということです。
「聖書読みの聖書知らず」とある方が言われましたが、この当時のユダヤ民族は、旧約聖書をしっかりと勉強し暗記していました。
しかし、肝心のその内容と天の父の「心」を全く理解していませんでした。
先日、老人ホームに入っている父の受診に病院へ行ってきました。ずいぶん年を重ねておりました。ふと、自分のこの年齢の精神状態を考えたとき、父も同じ年代の時にいっぱい葛藤して思い悩んで私を育ててくれたのだなと思いました。自分が同じ年齢になって初めて感じる父の心です。
二つ目は、人の子も上げられる、この言葉は、救い主は旧約のひな型通り、十字架にかかり晒しものにされて救いの道を開き、聖書を実現する。
それは、この十字架を仰ぎ見る者はすべて、罪のゆるしと永遠の命が与えられるという事実です。
「メンタルの強化書」という本を書いた方は、元外務省の職員です。彼は、鈴木宗男と言う政治家が国策捜査で逮捕されたときに、共犯として逮捕されました。この本の中で、拘置所内で自分のメンタルが心がどのようにして守られたかを書いておられます。
それは、自分はクリスチャンで自分の心がキリストにあって永遠の救いにいれられていること、また自分の罪がゆるされていることを心に持っていたからだと書かれています。
そのことの故にあらゆる非難に耐えられたそうです。
17日目 ヨハネによる福音書3章16節
ポイント 愛された経験
「神は、その一人子をお与えになったほどに世を愛された。」
聖書の中の聖書と言われる箇所がこの16節です。
聖書の中心、父なる神様の心そのものが表されています。
神の性質は、「お与えになった」とありますように「与える」生き方です。
ある保育園で、子どもたちの情操教育のために、毎週映画を見せているそうです。子どもたちの好きなアンパンマンやトーマスももちろん見せておられるようです。
しかし、子どもたちの最も好きな映画は「マザーテレサ」だそうです。しかも、その映像の一シーンにネリーと言う少年が毎日いっぱいの砂糖を我慢して壺にため、それがいっぱいになったらマザーのところに持っていくというシーンが大好きなんだそうです。
神の作品である人間も、与える生き方に魅力を感じるのです。
そして、神の性質は「愛」と書かれています。
しかも、その一人子さえ惜しまずに私たちのために与えてくださったのです。
高野山高校のスクールカウンセラーをしておられた方とお話しする機会がありました。前年に、高野山高校では学生が同級生を殺してしまうという、痛ましい事件が起こっていました。そのことも話の中で出てきましたが、一番心惹かれたのは、思春期に心のバランスを崩してしまうが、一線を越えてしまう子どもと踏みとどまれる子どもの違いは、「愛された」経験であると言われました。
人間は、愛された経験があると、しんどい状況環境でも耐える心の実力を持ち、また将来に対して希望をもって歩むようです。
神の愛があなたを取り囲んでいるのです。
18日目 ヨハネによる福音書3章16節「
ポイント 信仰とは?
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
いつまでも続いて行くものは、信仰と希望と愛ですと使徒パウロは言いました。
この世に無くならないものがある、それが信仰です。
信仰とは何か?
信仰とは神が人間にのみ与えたプレゼント「未来を思い描く力」です。
「独り子を信じる」とあるように信仰には方向があるのです。
多くの人はその方向を間違って、逆に使うようです。
お腹が痛い、悪い病気ではないだろうか? ガンかもしれない、助からないかもしれない
お葬式には何人来るかな?あの人香典持ってくるかな?等。
笑い話のようなことですが、香典の額まで見えてしまう人がいます。
また、「そんなことぜったできない、そんことあるはずがない」と固く信じている方もいます。
私は、その強い信仰の方向を変えて、「独り子」に焦点を当てて「大丈夫」と生きることが大切ではないでしょうか。
認知症の診断シートを開発された、医師の長谷川和夫先生は認知症のことは何でも分かっておられるその道の専門家です。
その長谷川先生自信がなんと認知症になってしまわれました。
そして、遺書とも言える最後の本を出版社のインタビュー形式で出されました。
その本の後半で、一番伝えたいこととして「信仰」を上げておられるのです。
先生は、二十歳の頃クリスチャンになり、教会生活を欠かしたことはないそうです。
最近、認知症が進み講演会に呼ばれても時間の感覚や先に話した内容を忘れてします、知らないうちにイエス様、信仰の話になっているとのことです。
自分が認知症になっても、イエス様を通して永遠の希望に生きる姿に感動を覚えます。
19日目 ヨハネによる福音書3章17節
ポイント 本当の勝利者とは?
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、」
神様の基本的なご資質は「ゆるし」です。
ゆるしを生きるということは、神のご性質にあずかり幸せを生きることに等しいと思います。
私は長年牧師をしていて、多くの人に出会いますが、その多くの人は物質的には何不自由のない状況にありながら、幸せそうには見えませんでした。
大きな重荷を背負っておられました。
その大きな重荷のほとんどは「ゆさない」という心の性質そのものです。
30年間も夫を憎み続けていた方から、毎日ようにお電話いただいたことをありました。
その時も、どんなに夫が悪い人間で、自分にどんなことを言いふるまったかを昨日のことのように話してくださいました。
可能性思考プログラムを開発されたポールJマイアー師が最後の来日をされたとき、多くのビジネスマンに最後は信仰の証をされました。
自分の父と母の話です。
父の素行が悪く、アルコールの問題や暴力の問題金銭トラブルを抱えて、毎晩のように母は泣いていました。しかし、母は幼いころから教会に通い、最後はイエス様の十字架のゆえに父をゆるす姿がそこにあったそうです。自分は父をゆるすのは難しいと感じており、母の行動に戸惑いがあったそうです。
しかし、ポールJマイアー自信が最後にこう言いました。
「母は正しかった」母は父をゆるすことにより幸せであり、勝利者であった。
神は、世を裁くためでなく、ゆるすためにキリストをお遣わしになりました。
20日目 ヨハネによる福音書3章18節
ポイント 的を得た祈り
「御子を信じる者は裁かれない」
御子を信じる者は裁かれない、すなわち、自分がゆるされていることを実感するのです。
もう少し踏み込んで考えると、自分をゆるすことができる。自分の人生をゆるすことができるということです。
多くの人は、神はゆるしているのに、まるで神が裁いておられるかのように、自分で自分を裁いて自分の人生を否定して生きておられます。実に苦しい人生です。
旧約聖書にヨセフという人物が出てきます。
ヤコブの子どもの一人で、天真爛漫な性格で、なんでも素直な表現をしたのです。そんな素直なヨセフを兄弟が憎み、あることをきっかけに弟のヨセフをエジプトに売ってしまいました。
ヨセフは奴隷の身分になり、今まで父ヤコブの庇護のもとで暮らしていた生活は一変し、苦しみの連続になりました。ある時は、信頼してた人に裏切られ、ある時は忠実に仕えていた主人の妻にひどい目にあわされ、いつも結末は囚われの身になるのです。しかし、この一連の流れの中でいつも「主はヨセフと共におられ」と書かれています。
私は、この言葉はヨセフが神のゆるしを信じて生きて、すべてのことの中に神のみ手をみて、人をゆるす人生を送ったということではないかと思います。
自分をひどい目に合わせた人や、裏切った人や自分に悪口を言う人をゆるすのは相当難しいと思います。
私も牧師としての歩みの中で、人をゆるすことの難しさをいやというほど感じてきました。
「あの時あの人がこう言った」「あの人がこんな態度をとった」等など、本当に心に大きな痛手を何度も経験しました。
しかし、まず大切なことは、そんな人をゆるせない、傷のついてしまった自分自身を、裁くことなく、静かにゆるし受け入れるのです。
なぜなら、「御子を信じる者は裁かれない」すなわち、ゆるしていいのです。
この場所に来ると、ゆるせないのではなく、ゆるしたくないということがわかります。
そこで初めて、「自分をゆるしたいと思えるようにしてください」という的を得た祈りになるのです。
自己受容はもうすぐです。
21日目 ヨハネによる福音書3章19節
ポイント 存在
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」
聖書を立ち止まり深く読むと、実に興味深いことに気が付きます。
「光が世に来た」と書かれてあります。
光の性質は、そこを明るくすることです。
大阪から奈良に夜に帰ってくると、大阪の明るさに慣れており、学園前に降りたときにはその暗さに驚かされます。
明るくなると、今まで見えていなかったものが見えてきます。見落としていたものに気づきます。
私がクリスチャンになって一番見えてきたものは、神の愛でした。
愛される価値のない私を心から愛して、一人子を送り、実に十字架に付けるほどの深い愛で愛されていることを知ったのです。本当に感謝でした。
それと同時に、今日の聖書の言葉「自分の行い」が見えてきたのです。
聖書の言う通り、自分の行い「つまらないことで人を憎み、受け入れることを拒み、小さな些細なことをいつまでも覚えていて人を責める等」が嫌と言うほど見えてきたのです。正直苦しかったです。
しかし、不思議なことですが、光はもっと深みを見せてくれました。
それは、「行い」ではなく「存在」と言うことです。
私の行いがどれほど神のみ心に反するものであっても、神は私の存在を心から愛しておられること。また、そんな私だからこそ、救い主を必要としていることが見えてきました。
依然として、私の中にある肉の性質は闇を愛し光を憎みますが、その存在そのものを丸ごと主は十字架で受け入れてくださったのです。
22日目 ヨハネによる福音書3章27節
ポイント すべては必然
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
バプテスマのヨハネの言葉ですが、本当に良い言葉だと思います。
全ての出来事の中で、「これは神が下さった」と思えるところに祝福と平安があるのではないでしょうか。
そして、「これは神が下さった」と心から思える時、全く解決の糸口さえ見えないできごとでも、希望の光を見出します。
作家の三浦綾子さんがこんなことを書かれています。
ある夫婦には子どもがなく、子どもが与えられることを二人の祈りとしていました。そして、祈りがかなえられ、待望の赤ちゃんを授かったのです。
出産当日、難産の中出産を終え、休んでいる奥さんのもとからご主人だけが呼びだされました。
ご主人は、何事かと思っておりましたら、医師とその横に生まれたばかりの赤ちゃんがいました。それは、一目見てわかる大きな障がいを赤ちゃんが負っているのがわかりました。
ご主人は、どのようの妻のこの事実を伝えようかと思い悩んでいましたが、思い切って赤ちゃんに障がいがあることを告げたのです。
ご主人は、きっと奥さんは深い悲しみの中で落ち込むであろうと思っていました、にっこり微笑んで「神様がこの子をどの家庭に預けようかと世界中まわられて、この家庭なら大丈夫と託してくださったのですから、精一杯育てましょう」と言ったのです。
人間の思いや願いをはるかに越えて、最前いがいなさらにお方が、自分の人生にもたらして下さったと信仰をもって受け止めるところに、この世の価値観を越えた本物の幸せがあるのではないでしょうか。
23日目 ヨハネによる福音書3章30節
ポイント キリストにあって
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
この言葉は、バプテスマのヨハネが自分のあとから来られた、主イエスキリストの目覚ましい働きを聞いた時の言葉です。
存在不安の強い私にとって、とても口にできる言葉ではありません。
ヨハネはまだ30代の初めです。
尊敬する牧師が、20代30代の男性への教育講演会は一番やりにくいし、話を聞かないと言われていました。
30代の頃は、体力気力もあり、なんでも思い通りの人生が手に入ると思っているのではないでしょうか。
そして、それは悪いことではなく、そのくらいの意気込みで全力で仕事や子育てをする年代なのだと思います。
しかし、自分の思いとは裏腹に言葉ほど成果や実績を上げることができず、内なる苦しみを抱えるのも30代であると思います。
そのヨハネから「私は衰え、キリストが栄える」と言う言葉が出てきたということは、本物の人生をヨハネが歩んでいた証拠です。
内なる自我が弱くされ、神の力であるキリストが自分の内で大きくされていく人生を彼は願ったのです。
自分の思いより、神の御心がなされることを口で告白したのです。
自我が砕かれる経験は、気持ちの良い出来ごとではありません。
時には、自分の情けなさに立ち上げることすらできないかもしれません。しかし、その中をあの方の恵みに支えられて立ち上がって行くときに、心の筋肉が強くされるのです。
24日目 4章4節
ポイント 大いなる愛
「サマリヤを通らねばならなかった」
4章よりサマリヤの女の話に移ります。
4節で、mastという強い言葉が使われているのです。
イエス様は、どうしてもサマリヤを通らねばならなかったのです。
もともと純粋なユダヤ民族は、混血の多いサマリヤ地方は通らずに迂回して旅をしました。それほど、ユダヤ人にとってお付き合いしたくない方々なのです。
ブライアントレイシーが「カエルを食べてしまえ」と言う本を書かれていますが、内容はその日の一番やりたくない仕事から取りかかれと言うものです。
一日の仕事の中でやりたくないことを最初にこなしてしまうと、残りの時間を余裕をもって過ごせるからです。
この時代の宗教的な差別意識と偏見、またサマリヤに対する嫌悪感を考えると、やりたくない仕事どころではありません。
せっかくの良きイエス様の評判は落ちてしまい、この後のイエス様の働きに影を落とす、大きなマイナスになりかねません。
しかし、イエス様はサマリヤに行かねばならなかったのです。
これを、「愛」と言います。
イエス様の行動の原則は、利益でも強制でも道徳心でもなく、「あの人を救いたい、助けたい」という愛なのです。
その愛であなたは愛されているのです。
25日目 6節
ポイント 弱さは宝
「イエスは旅につかれて、そのまま井戸に座っておられた」
奈良教会に赴任して20年の年月が流れました。
主は、大きなみ手をもって教会を導いてくださいました。
5年前に、みささぎ伝道所が神様の働きにより生み出されました。また、それに伴い岡村ゆり伝道師がその働きをさらに進めていてくださいます。
私はみささぎ伝道所をスタートした時、心に一つの決心をしました。
それは、奈良教会の礼拝のご奉仕を減らして、みささぎにも力を入れないといけなので、自分は休みを取らないように、元気で出来る限りのご奉仕をしよう。
風を引いても休まず、しんどくても与えられた仕事全うするようにしておりました。
昨年は、「やまと」が我が家にやってきました。
命の素晴らしさと共に、障害を持ち、尚且つ医療ケアの必要があるやまとの育児は、想像以上にすべての面で力が必要でした。
現在も毎月の大阪の検診や療育、夜は酸素をつけての毎日です。
自分が倒れるわけにはいかない、ご迷惑がかかる。何より主の栄光にならない等の思いが心を満たしておりましたが、自分の限界を常に意識する毎日となりました。
そんな中で、本日の聖書の箇所は実に慰めでした。
イエス様は疲れられた。疲れてうえにまだ日が高いにも関わらず、井戸のそばにへたり込むように座り込んでしまわれた。
このお姿を思い描くだけで、涙が流れてくるほど慰めを受けます。
聖書は、「疲れていい」「へたりこんでいい」「弱音をはいていい」というのです。
それどころか、そのことが自分の弱さをいやというほど実感したとき、驚くべき出会いが準備されていると知るのです。
人生の旅は短距離ではなく長距離と表現されますが、疲れたら休息を持ち、また主の恵みに力をもらい、信仰の戦いを歩んでまいりましょう。
26日目 7節
ポイント 心の痛み
「サマリアの女が水を汲みに来た。」
ここにたくさんの情報が詰まっています。
まず、日が高い時間に普通の主婦は水くみをしません。ということは、近所の人を避けるように、誰にも会いたくないという思いが見えます。
私は、尼崎で牧師をしていたころ、多くの路上生活方がと出会いました。
何とか支援して、在宅につながるように働きかけをしていましたが、多くの方々は表に出ることができない何らかの理由を抱えておられることを知りました。
それは、借金の問題であったり精神障害のことであったりアルコールの問題であったりさまざまですが、在宅につながるだけではとても解決できない多くの問題を複数抱えておられたのです。
そして、こられの人々は社会のセーフティーネットの網にからない方々なので、孤独でありしかもどこにも支援の声を上げることができませんでした。
このサマリアの女も大きな問題を抱えながら、孤独であり誰にも相談できず「神も仏もあるものか」という大きな心の痛みを抱えながら生きていたに違いありません。
しかし、日々の生活は営まれなければならず、「水をくむ」という行為を放棄することはできませんでした。
先の見えないしんどさの真っただ中で、生活するためにだけに生きなければならず、自分の将来に希望を見出すことのできないというのは、彼女を人から遠ざけ無口にして、起こる出来事を否定的にとらえ、負のエネルギーに自分の身を委ねるしかすべのない人生です。
しかし、この女性に会うためにイエス様はサマリアに来られて、その井戸で待っておられるのです。
27日目 7節
ポイント 先行する恵み
イエスは、「水を飲ませてください」といわれた。
旅の疲れを感じられたイエス様がスカルの井戸に座り込み、疲れをいやしておられました。そこへ、問題いっぱいのサマリアの女が水を汲みに来たのです。
そして、イエス様が「水を飲ませてください」とサマリアの女にお願いをされました。
この会話は本来逆なのです。
問題を持っているサマリヤの女が、その問題の解決を持っているイエス様にお願いするのが普通です。
しかし、ほとんどの場合、自分の問題に気づいていません。ですから、一生涯的外れに人生を過ごしてしまうことがほとんどなのです。
ところが、そのような人生のからくりに気づかないサマリヤの女に、神の先行の恵みが覆っていたのです。
それは、主イエス様が先に来て、スカルの井戸でお待ちになり、しかもイエス様の方から語りかけられたのです。
その内容も「助けてください」とい人間が持つ神の作品としての本能を呼び覚ます、人のお役に立ちたいという思いです。
私たちの人生も同じなのです。自分の問題が何であるか認識、その問題をどこへもって行けば良いかを知っている人は幸いです。
しかし、多くの場合、自分の問題に気が付かないし、気づきたくありません。
そんな、私たちに今日もキリストの恵みは先行して、先回りして私たちを待ち、しかも、自分が神の作品であるといことを思い出す質問をもって、私たちを恵もうとしてくださっているのです。
28日目 9節
ポイント 常識を越えて
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」
私たちの祝福を阻む最大の敵は常識です。
特に日本人は非常識や恥を最も忌み嫌う民族かもしれません。
和を尊びそこにある人間関係を大切にし、上下関係を重んじます。
これはある意味で日本人の大切な特性だと思います。
当時のユダヤの世界も常識がありました。それは、サマリヤ地方は呪われた地であり、サマリヤ人は混血民族で神の祝福はないという宗教的な常識です。
ある地方は、昔からの言い伝えが法律より重要と考えることがあるように、当時のユダヤの世界では、法律よりもユダヤの常識が重んじられていました。
レッテル効果と言われるように、そのように見られる側も本来は神の恵みのただ中にあるにもかかわらず、自分たちは「ダメな」人間であると思い込んでしまいます。
しかし、怖くてだれも声を上げられなかったことに対して、神の恵みは大波のようにその壁に押し寄せて、そこ愛で満たすのです。尼崎で伝道していたころ、多くの路上生活の方々と出会いました。
私は教会に普通の人(今考えると何が普通なのかと思う)が来てほしいと思っていました。
しかし、私の意に反して神様は路上生活の方を教会へ私のもとへ送られたのです。
彼らと私の常識は違いました。
しかし、私はそれらの人々との出会いを通して、自分の常識が吹き飛びました。
彼らと共に生きようとすると、まるで使徒言行録のように奇跡の連続なのです。
そして、私は理解しました。神は私たちの常識を越えて、働こうとされていて、私たちがそのみ心に従う時に、神の恵みがあふれるのです。
29日目 10節
ポイント 心の傷に食い込む神の愛
「その人はあなたに生きた水を与えたであろう。」
旅につかれたイエス様が「水を飲ませてください」とサマリヤの女にお願いしたことが、人生につかれたサマリヤの女の心の傷に触れて、癒しへと話と物語は進むのです。
10節は明快な答えです。
1、 イエス様は、サマリヤの女のためにこのサマリヤを通られた。
2、 神はあなたを愛していて、あなたにずっと語りかけていた。
3、 共感と言われるように、旅につかれてイエス様は人生に疲れたサマリヤの女の心と共感して心を開くことができた。
4、 私は神だからと言うのではなく、あくまでも謙遜の限りを尽くして神の愛で包まれた。
10節はこのようなことが込められていて、しかも言葉ではなく行動をもってイエス様が証明されました。
福井達雨先生が「愛、それは行動です」という本を出しておられますが、本当にその通りだと思います。
その中に、重度のてんかん発作と知的障害を持つ方のことが書かれてあり、いつも「アホ」と言われていたそうです。
ある時てんかんの発作が起こり、病院に連れて行くと、最初の病院では断られ、次の病院では「このような子は早く亡くなったほうが家族のためである」と言われました。
そして、福井先生はその子どものお葬式の時に、思わず立ち上がり、今までの現状と「ぼくはアホやない、人間や」という言葉をその中で大きな声で叫んでいたそうです。
そして、一度も笑顔を見せることのなかったこの子のために、祈ってほしいと皆さんにお願いしたのです。
「愛とは行動です」
30日目 11節
ポイント 病んでいる心の屈折
「主よ、あなたは汲むものをお持ちでなく、井戸は深いのです」
サマリヤの女は、イエス様との会話の中で、今まで経験したことのないぬくもりとやさしさまた、自分と向き合ってくださりその鋭い質問で自分の心の深い所に光が当たり始めました。
しかし、人間の本当の姿がここに描かれています。
それは、どこまでも心がひねくれており屈折しており、誰かを支えるのではなく、その足を引っ張り、心に失望を与えようとしてしまいます。
「あなたは汲むものを持っていない」
なんという言葉でしょうか。何という失意に満ちたことばでしょうか。
また「この井戸は深い」何という、否定的な思考を持ち、周りの人に希望ではなく失望を語ってしまう。
祝福を目の前にしたサマリヤの女の言動です。
この言葉からわかる通り、日ごろの生活の中でも同じ言動であるのです。
主は「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言われましたが、祝福されている人を見ると足を引っ張りたくなり、心痛んでいる人に自分が痛んでいてエネルギーがないので、傷つく言葉を語ってしまう。
この後の言葉に「どこからその生ける水を持ってくるのですか」とい、積み重ねられたこの女の怨念のようなものを感じます。
私たち人間は、このような否定的エネルギーや心の痛み、また心の中につもり積もった怨念を誰かにぶつけたいのです。
だいたい、ぶつけやすい人その対象になりやすい人にぶつけてしまいます。
しかし、それでは解決できないのです。それは、ぶつけた相手が救い主でないからです。
救い主以外にぶつけると何倍にもなって帰ってくのです。
しかし、サマリヤの女は救い主にぶつけ、それらを十字架に付けてもらったのです。