日本バプテスト連盟 奈良キリスト教会

聖書一日一章Vol.2

聖書一日一章 Vol.2

一日目 ヨハネによる福音書 2章5節

ポイント:基本に忠実

「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」

大事な結婚式で大事な葡萄酒がなくなりました。

イエス様の母マリア様はそのことを知り、イエス様にそのことを告げました。しかし、その時「人間の時」と「神の時」があることを語られました。

その答えを聞いたとき、マリア様が召使いに言った言葉が上記の言葉です。

召使いにとって簡単で当たり前のように思いますが、基本がしっかりしている人物でないとこの言葉を理解することはできません。

人間は我流ではなく、しっかりとした師匠についてその道のプロについてしっかりと学ばないと基礎は確立できません。

また、我流ではなくいつも基本に忠実に生きることをしないと、人を本当に救い慰めることはできなのです。

以前、四国で行われたカウンセリングの初級の基礎講座に出席しました。

その時、主催者のその道の権威の方が私に向かって「何をしに来られましたか?」と聞くのです。実に意地悪な質問です。

私は「基本から外れないように、我流にならないように基本に戻りにまいりました」と答えました。

我流は自己満足しか生み出しませんが、徹底的に基本に生きることを学んできた人は、その土台の上で自分の個性を本当の意味で発揮し、多くの人に届くとこができるとわかっているのです。

マリア様が「このお方が言われることは、その通りに」と言われるとき、基本を学んでない召使いや中途半端で終わっている召使いならば、よく似ているがどこかで自分が出てしまい「その通り」ではないのです。

また、基本は同じ事の繰り返しですから、時につまらなくやりがいもないのです。

「すべてに神の時がある」と言われるように、私たちも「すべてに神の時がある」という言葉に戻り続け、戻り続け、それが普通になるまで、またそうでない事柄が目の前に起こっても、戻り続ける一日でありたいものです。

「その通り」まで基本を貫く。

2日目 ヨハネによる福音書2章7節

ポイント:「人を生かすものは?」

「水瓶に水をいっぱい入れなさい。」

仕事で一番しんどい場面は「自分はやらされている」と思う時です。

逆に自分が仕えているにも関わらず、一つもしくわ二つ上のポジションであるならばどのような意識で仕事をしているだろうかと考えてする、同じことをしていてもその人の成長の度合いは全く違い、上の立場の人から見て何か違うものを感じる人物になります。

今日の箇所で、大きなユダヤの水瓶6個全部になみなみと水を張りなさいとイエス様が言われた場面です。
そんなにたくさんする必要は全くなく、6個全部に水をいっぱいにする意味や理屈など全く理解できません。
特に合理的で生産的な考え方が身に染みていると、なんと非生産的でなんと非合理的なことであるかとイエス様に抗議をしてしまうのではないでしょうか?

しかし、人間はそんなに合理的生産的に生きることができません。

私たちは、年をとればできることが少なくなり、ある時期を境に肉体的に精神的に衰えが出始めます。

時代の価値観に騙されることなく、合理的生産的であることのみが人を生かすものでないことを造り主の愛の中で経験し、神様ご自身にいっぱい無駄と思えるようなことをしてもらい自分自身が生かされる経験を持っている人は幸いです。

なぜなら、6個の水瓶を水でなみなみと満たすという一見無駄で非生産的なことが、実は神の愛で満ち満ちて「恵んであげたい」とあふれている神様の豊かな恵みであると理解できるからです。

そして、十字架の愛こそ「ゆるしたい、恵みたい」という非生産的な神の愛に他ならないのです。

ここに注がれた水は、豊かにあふれる神の愛そのものです。

だからそれが葡萄酒となり、人の心を生かし慰めるのです。

3日目 ヨハネによる福音書2章8節

ポイント 「今でしょ」

「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」

イエス様は非生産的な事柄を通して神の愛の豊かさをお示しになりました。
無駄と思えるような深い恵みでないと、私たちは救われることはありませんでした。

そして、なみなみと注がれた水瓶の水を「さあ、それをくんで持って行け」と実に無理なことをイエス様はおっしゃるのです。

皆さん水ですよ。この召使いは水を宴席に持って行った瞬間にくびです。

次の仕事先でも見つかっていないと、わたしには持っていく勇気はありません。

ではこの箇所は作り話なのでしょうか?

このような行動ができる人がたった一人だけいるのです。

それは「変化に対して柔軟な考え方」ができる人です。

もしこの召使いが「水が葡萄酒に変わるはずがない」と固く思っていたらどうでしょうか?

しかし、「神の時」があると言われる方が「神の業」をなされるかもしれない。
それが非科学的なことであっても。

その昔ある兄弟が「鳥のように空を飛びたい」と思いました。しかし、当時の科学では人間は空を飛べるはずがないと言うのが一般的で、すべての人は「そんなことできるはずがない」と言ってこの兄弟を馬鹿にしていました。

しかし、1903年12月に259、6mライトフライヤー号は、大空を飛んだのです。それを、大手の企業が見ていました。そして、飛行機ができました。

「今でしょ」と今を生きる人の特徴は、変化にたいして柔軟な考え方を持ち、目の前の出来事に「それではやめよう」ではなく「ならばやってみよう」と生きる人ではないでしょうか。

4日目 ヨハネによる福音書2章9節

ポイント:成功体験

本当に素晴らしい言葉です。

「水をくんだ召使だけは知っていた」

青年白書によりますと、現在の若者、特に中学生高校生は自分はダメな人間だと考えている人の割合が、他国よりも多いと書かれています。

中学生高校生ですから、そんなに人生経験が多いわけでもなく、まだ何も失敗といようなことも経験していないのに自信がない若者が多いのです。

振り返れば、私自身も自分に自信が全くなく、小さな存在である自分をなんとか覆い隠すために破壊的な行動をしていたものだと思い返します。

自分は勉強でも運動でも人より劣っており、芸術面でも音楽面で全くダメでした。

残りは悪い行いでしか目立つことができなので、そちらでしか自分の存在をアピールする方法がなかったのです。今考えると実に愚かです。

キリストに出会うまで、行いでしか自分の存在の価値を確認できなかったのです。

今日の箇所に書かれている成功体験は、自分の頑張り行いではなく、主イエスと共に生きることにより、主の言葉にただ従うことによる成功体験です。

自分の頑張り努力で人を喜ばせ、何かを成し遂げるならば自分の自信になることであろうと思います。それはそれで大切なことです。

しかし、キリストの恵みただキリストの恵みによって自分が、こんな自分が用いられたことによる成功体験は、人を謙虚にするのです。

水をくんだ召使は、大きな奇跡のために用いられましたが、そのことの故に自分が用いられる喜びと共に、なお一層謙遜に神様に信頼するものに変えられたに違いありません。

そして、人間の本物の自信は、自分の頑張り努力より、神の通り良き管になることによって、自分を通してなされる成功体験によるのです。

「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」という使徒パウロの力強い言葉は、従うことにより生まれた彼の自信なのです。

5日目 ヨハネによる福音書11節

ポイント:栄光とは?

「最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を表わされた。」
イエスキリストがその公の生涯において、最初の奇跡がこのガリラヤのカナの婚礼での出来事でした。
水を葡萄酒に変えるという奇跡を通してその栄光を現わされました。
そして、この奇跡を聖書は「栄光」と表現しています。
栄光とは一体何でしょうか?
栄光とは、その婚礼にたまたまイエス様が招かれていたこと。
栄光とは、ありえないミス、婚礼の主催者が一番大切な葡萄酒の準備を怠ったこと。
栄光とは、「葡萄酒が足りなくなった」とあるように不足の事態に陥ること。
栄光とは、召使が無駄と思えるイエス様のご命令「水瓶に水をいっぱい」を合理的なことや生産的なことを超えて従ったこと。
栄光とは、水が葡萄酒に変化するという質的な変換が起こったこと。
栄光とは、この出来事の詳細を婚礼の主役が知ったのではなく、日の当たらない召使だけが知っていたこと。
私は、これらすべてが神の栄光に思えてならない。

作家の三浦綾子さんが、「もし、病気が癒されることのみが神の栄光であるならば、私は一生涯神の栄光を現わすことはできません。なぜなら、私は病気の問屋です。」
そして、三浦綾子さんの言葉「私はがんになって神に依怙贔屓されていると思った。」
私たちは、DO「行為」のみにあまりにも焦点が当たりすぎていて、大きくなること繁栄すること、生産性が上がることのみが神の栄光と思いやすい。
しかし、栄光とはBe「存在」である。
全てそのみ手に握られて益、神の栄光の手の中に私たちの人生はすでに「ある」のです。

栄光から栄光に主と同じ姿に変えられる。

6日目 ヨハネによる福音書2章14節

ポイント「相応しい生き方」

「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。」

ユダヤの過ぎ越し祭が近づいたので、イエス様はエルサレムへ旧約聖書の教え通り上って行かれました。

そこで目にしたのが、神の神殿の境内において行われている出来事をご覧になったのです。

本来境内は、このようなことに使うためにあるのではなく、神を礼拝するためであります。

なぜこのようなことが起こってしまったのでしょうか?

言葉を変えれば、信仰が形骸化して自分の生活の中では全く無意味な出来事、行為になっていたのです。

私は当時のユダヤの民の自己認識の欠如によるものと思えてなりません。

立場が人を造ると言いますが、人間は神に造られ神に愛された尊い神の作品である。ということが信じられなかったのではないでしょうか?

平成天皇が皇太子殿下であられたとき、銀座を公務で歩いておられました。

その時に、殿下がある一軒のお店の前に立ち止まりショーウィンドウごしに、中のものを物欲しげに眺めておられたそうです。

その時にお付きの方が殿下の耳元で「殿下ご身分、殿下ご身分」と言われました。

すると皇太子殿下は、すっと背筋を伸ばし元の調子で歩いて行かれたそうです。

ユダヤ民族は、「神の栄光あらわす神の尊い作品」と言うことを本当にどれだけ意識して、どれだけ本気で信じていたのでしょうか?

自分が造り主、「YHWH」発音すら許されない、神に属する聖なる民であることを、どこまで受け止めていたのでしょうか?

同じように、あなたもこの主に属する「神の子ども」になったのです。

しかもそれは、DO「行い」ではなくBe「存在」キリストの十字架で存在そのものが受け入れられているのです。

7日目 ヨハネによる福音書2章15節

ポイント「うちに秘める情熱」

「イエスは縄で鞭をつくり、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし。」

このようなことを、あのやさしいイエス様がなさるとは想像できません。  

牛や羊を境内から追い出すのはわかりますが、お金をまき散らしたとまで書かれています。

イエス様は、何と情熱的なお方でしょうか。

神学校時代にお世話になりました、「陶器士」ことフレッドスンベリ師は、本当に情熱的なお方でした。

学生に全力でぶつかり、お互いが傷つくことや自分の評価などがどのようになるかなどを恐れることなく、全力で学生の自我が砕かれて、通り良き働き人になるように、働かれました。

私はある時スンベリ師に呼ばれ、学校の本館の横にある別館に連れていかれ、自分がこの別館の設計など必要なことは全部設計者や大工さんに伝えたと言われました。

当初、何のことを言っているのか全く理解できずにいましたが、「松原さんあなたはいい子過ぎる、」「私は、自分の思いや考えを人に告げることに遠慮をしない」「私は人の目は怖くない」と言われました。

人の思いや考えを配慮して、自分の感情を押し殺してしまっていた私にとって、人に合わせるということは、その人にとって良い人に映るかもしれませんが、それはどうでもいい都合の良い人だと言うことに何年も後になって気が付いたのです。

その先生が、「私はもっと感情的でありたい」という言葉を残されていると知り、大変驚きました。先生は、これでも抑えておられたのです。

私は、自分が感情的であるより、もっと理論的に冷静に物事を進められるようになりたいと思っていましたし、それが良いことであり神に受け入れられることであると誤解していました。

なんでもかんでも自分の感情を出せばよいというのではありません。
しかし、イエス様がうちに秘める情熱をそのまま表現されて、「お金をまき散らす」とまで書かれていることに驚きます。

イエス様は、自分の評価や時代の価値観よりもっと大切なものを意識して生きておられたのだろうと思います。
そして、イエス様が全力で自分の情熱を注ぎだされたのが、カルバリの十字架です。

その情熱は、人を赦し、人を生かすことに使われました。

当時のユダヤ人には全く理解できませんでした。

8日目 ヨハネによる福音書2章16節

ポイント 所有意識

「私の父の家」

本当に不思議な言葉です。

エルサレム神殿を指して、「これは私の父の家」と言われたのです。

エルサレム神殿がイエス様のお父様の家であるならば、それはイエス様のものでありイエスの家であります。
ですから、ご自分の家の庭で羊や鳩の売り買いをして、両替商が自分の私腹を肥やすために我がもの顔で商売をしてる姿に違和感を覚えられるのは当然です。

それでは、私と私の人生の「所有者」はだれなのでしょうか?

Ⅰコリント3:16「あなた方は神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。

ある方が、人生という大海原を旅する私たち。「そのタンカーの所有者は天の神様、船長はあなた」と言われました。

別な言い方をすると、全部貸し出されたものということができるのではないでしょうか?

「心のチキンスープ」という本に、ある女性が昼食後公園で自分の大好きなクッキーをつまんで食べていました。

ところが相席の初老の男性が、こともあろうに自分のクッキーの袋に手を入れてそれを食べ始めたそうです。知らぬふりをしていましたが、最後の一枚になったとき、その初老の男性がクッキーを手に取りにっこり笑ってそのクッキーを半分にして差し出したそうです。これにはさすがに怒りが込み上げてきて、何も言わずに席を立ったそうです。

しかし、部屋に帰って自分のカバンの中に目をやると、同じ袋の自分のクッキーがそのまま出てきたそうです。その通り、彼女は男性のクッキーを食べていたのです。

人生も自分のものと思う時、思うとおりにならないと怒りが込み上げてきますが、聖書はあなたの人生の所有者は天のお父様であると書かれています。

平安な人生の秘訣はここにあります。

9日目 ヨハネによる福音書2章19節

ポイント 行為ではなく存在

「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」

ユダヤの人々は、主イエス様の言われている言葉が全く理解できず、「どんなしるしを見せてくれるのか」と詰め寄るのです。

しかし、その質問に対するイエス様の回答と彼らの理解力の差がありすぎて、そのことも全く理解できなのです。

イエス様は「三日で神殿を立て直す」すなわち、ご自身の死と葬りと復活のことを言われました。作るのに46年間かかったエルサレム神殿より、主の甦りの方がはるかに難しいのです。

そして、この言葉に隠されているイエス様の愛やぬくもりを理解している人は、全くいませんでした。

主イエス様は、私たちの罪を背負い十字架にかかり、ご自分の神殿、ご自分の体をすべてささげて死んでくださいました。そして、すべての罪に代価を払って3日目に甦り、今も生きておられます。

私は、自分の功績が理解されないと腹立たしい思いになります。それほど、核となる存在が弱く、外側のDO行為に自分の心の拠り所を求めてしまう弱い存在です。

しかし、存在そのものに自信がある、存在そのもので勝負できる人は、外側の行為や功績があまり気にならないようです。

それでは、存在BEを強くするにはどうした良いのでしょうか。

それは、存在そのものにエネルギーのある方と共に時間を過ごすことです。

そして、すでに存在そのものに実力のなる主イエス様は、「私は決してあたなを離れず、あなたをすてない」と言われるのです。

10日目 ヨハネによる福音書3章1,2節

ポイント 生涯学び

「ニコデモという人がいた。ユダヤ人の議員であった。ある夜、イエスのもとにきて」

ニコデモはファリサイに属する立派な議員で、人々の信頼も厚く人々のため神のために仕える人でした。

また、道徳的にも精神的に自分を磨くことを怠ることのない人物であったと思われます。

私は学生時代勉強が嫌いで、嫌いというより全く理解できず、本当に勉強の喜びを知らないまま現在に至っています。

また、神学生時代は、神学校を出てからが本当の学びである、実地教育を重んじる校風でしたので、こちらもあまり学びを重要に考えていませんでした。

私もそのような考え方が強く、信仰で切り開いていかなければならないと感じて、早く実地に遣わされたいと願ったものでした。

しかし、いったん実地に遣わされると何もない自分に気づかされる毎日です。それにも関わらず、「牧師先生」と言われなんでも知っている、なんでもできるかの如くに言われているような気がして、大変つらい毎日を送っていました。

40代を超えたころ、なぜもっと学んでおかなかったのかと深い後悔と残念の思いが心に強く湧いてきたのです。
なぜなら、本当に学ぼうと思えば立派な先輩牧師や指導者に囲まれていたからです。にもかかわらず、私の心は学ぼうという気持ちになりませんでした。それほど思い上がっていたのです。

もし、先輩のH先生ならこんな時どのようにされるだろう、あのS先生ならばどんな風にこたえられるだろうと40歳を過ぎてから、先輩のカバン持ちをした気持ちにかられました。

ニコデモは、どんなに自分が上の立場になっても、自分より年齢も若いイエス様のところにわざわざ来て、教えを乞うたのです。

時間がないからテープですまそう、本で済まそう、というのではなく、その人本人のまえで学びを受けると、知識と共にその人の中にある肯定的エネルギーに必ず触れるのです。

11日目 ヨハネによる福音書3章2節

ポイント 学ぶとは?

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるしるしを、だれも行うことができないからです。」

ニコデモは、イエス様を「教師」と表現しました。

学ぶこととは、「力を新たに身に着けて、その身に着けた力をつかって、新たな世界を広げるということ」とH教授は言われました。

ニコデモは、ファリサイ派の中で学んだことだけでは、どうしても平安になれなかったのです。
それは、ニコデモが自分の言葉で表現した、「神が共におられる」とい世界です。

ニコデモは、厳格なファリサイ派に属して聖書をしっかり学んでいながら、「神が共にいる」という平安な世界からは、程遠い人生でした。

「教育」とは、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるため、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。と辞書に書かれてあります。

私は、そこで一番重要なものは「教師」であると思います。
「何を」より「だれと」ではないでしょうか。

同じことを学んでも、言葉は「希望」を語っても、語っている者、その教師が本当に希望を持っているのか、毎日惰性で生きているのかでは、全く違うと思います。

希望の説明、平安の説明、また神が共におられることの説明はできても、どんな時も約束を信じて希望に生きており、説明はわかりにくくても「あなたを見ると神が見える」というような本当の平安に良い教師は生きているのです。

イエスは良い教師です。

あなたに意図的に働きかけて、神が共におられることを、あなたの内側に平安をもって教えてくださるのです。

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